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堀切の花菖蒲は、江戸名所の一つとして、江戸時代のみならず明治・大正期まで多くの人々がこの場所に訪れたほどです。
葛飾区立石にある真言宗豊山派の南蔵院は五方山立石寺と号し、熊野神社の別当寺として長保年間(999~1004)に創建されたと伝えられています。江戸時代は将軍鷹狩の際の御膳所も勤めていました。
新宿(にいじゅく)は水戸街道の宿場として千住宿と松戸宿の間に置かれていました。しかし参勤交代の大名たちは千住宿や松戸宿に泊まるため、本陣も脇本陣もない、小さな宿場でした。ここには中川を渡るための渡し場がありました。
夕顔観音とは、寛文8年(1668)、飯塚村(現・葛飾区水元飯塚町)の関口治左衞門が夢のお告げにより自宅のそばにあった松の根元から掘り出したという由緒を持つ観音菩薩像のことです。
江戸時代の王子は、王子稲荷参詣や滝浴みなどの観光地として大変賑わっていました。音無川付近には料亭が軒を連ねていたそうです。なかでも評判だったのが「海老屋」と「扇屋」で、江戸時代の料理屋番付などにも登場します。「海老屋」は扇屋の兄弟が出していた店ですが、今では扇屋だけが残っています。
石神井川は、王子稲荷のあたりでは音無川と呼ばれています。王子稲荷が紀州(和歌山県)の熊野権現を勧請し、地勢も熊野山を模したことに由来するためで、川の名前も紀州音無川に倣った(ならった)のです。
飛鳥山が桜の名所となったのは八代将軍・吉宗の時代で、「享保の改革」の一環として江戸の人々の行楽地とするため、飛鳥山に桜を植樹したことから始まります。
王子稲荷には、稲荷の使いである狐が大晦日に関東中から集まり、近くの榎の下で身なりを整え、初詣をするという言い伝えが残っています。これが「衣装榎木」の由来です。この時、狐たちが灯す狐火によって、地元の人々は翌年の作物の実り具合を占ったそうです。
富岡八幡宮(とみがおかはちまんぐう)が、永代島(現・江東区佐賀町)に創建されたのは寛永4年(1627)のことです。深川八幡宮とも呼ばれ、源氏の氏神でもあることから源氏の末裔である徳川家の保護を受け、江戸最大の八幡宮として繁栄しました。祭礼は、赤坂の日枝神社の山王祭、神田明神の神田祭と並ぶ「江戸三大祭」の一つに数えられています。
天恩山五百羅漢寺は本所五ツ目(現・江東区大島)にあり、境内六千坪を有する大寺院でした。江戸末期、暴風雨や地震により荒廃し、現在は小さなお堂を残すのみです。