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江戸時代、大森にはめまいや風邪などに効能があるとされる「和中散」という粉薬を売っている店が東海道沿いに3軒、軒を連ねていました。近江国に本家がありましたが、大森の和中散は「世に大森和中散と呼ぶ、頗(すこぶる)著名なり」と、特に有名でした。
渋谷川の上流でせき止められた水が水車小屋を廻って水車をまわしています。広尾の水車は別名「玉川水車」ともいい、渋谷地区では最も古く、また、規模は一番大きかったといわれています。
江戸四宿のひとつとしてにぎわい、重要であった内藤新宿ですが、当初、甲州道中の最初の宿場は高井戸でした。しかし、日本橋からの距離が遠くて人馬ともに疲労する、との理由により、元禄の頃に新たな宿場として内藤新宿が設けられたのです。
太田道灌の故事で有名な山吹の里の所在地については昔から諸説あるようです。『江戸名所図会』では、それらを踏まえた上で、土地の言い伝えにまかせて、山吹の里は高田馬場の北の方にあったとする、としています。
梅若丸(うめわかまる)は、人買藤太(とうた)に騙されて京の都からはるばる隅田川まで連れてこられ、7歳で隅田川畔で非業の最期を遂げた薄命の子どもです。謡曲や浄瑠璃の「隅田川」の主題ともなっており、江戸の人々にはよく知られた伝説でした。木母寺(もくぼじ)の境内に梅若塚があり、毎年3月15日には「梅若忌」が営まれました(現在は4月15日)。
根岸の里は上野の山蔭にあり、風雅な趣のある土地柄だったので、江戸時代から多くの文人墨客(ぼっかく)が住んでいました。また、日本橋や京橋の大店(おおだな)の別荘などもあり、人々はこの地ののどかな四季を楽しんでいました。鶯の名所でもありました。
今戸焼の正確な起源は不明ですが、下総国(しもうさのくに)千葉氏の家臣が石浜あるいは今戸に土着して、瓦や土器を造り始めたのが最初であるといわれています。瓦のほか、火鉢、雑食器、稲荷の狐や招き猫などの人形などを焼いていました。
日本橋は大江戸の中心であり、諸国への行程の起点でもありました。橋の上からは江戸城と富士山が望め、江戸が日本の中心であることを実感できる場所でした。本書には「橋の上の往来は貴賎問わず、間断なく、橋の下を行き交う船も朝から暮れまで轟々としてかまびすしい」と書かれています。橋の欄干には擬宝珠(ぎぼし)がつけられていましたが、これは橋の格を表すもので、日本橋のほかは京橋だけが許されていました。
堺町は江戸歌舞伎の始祖、中村勘三郎が寛永元年(1624)に創立した猿若座(のちの中村座)が慶安4年(1651)から芝居小屋を設けていた町です。また、葺屋町は芝居の江戸三座のひとつである村山座(のちの市村座)が寛永11年(1634)に堺町に建てた芝居小屋を移転して興行をした芝居町です。しかし、いずれの芝居小屋もこの絵が描かれた直後、天保の改革により、天保13年(1842)に猿若町に移転しました。
佃島は、徳川家康が江戸入府の際、摂津国(せっつのくに)の漁民を居住させ、漁業に従事させたのが始まり、と本書に書かれています。毎年11月から3月までの間、隅田川で捕れる白魚を江戸城に献上していました。