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護持院原は神田橋と一ツ橋の間の御堀の外に広がる原でした。本書には「御溝(おんほり)の外の芝生を云ふ」と書かれており、芝生の広がる原であったことがわかります。享保2年(1717)に護持院が焼失した後、この地での再建は許可されず、空き地となったものです。景観もよく、夏秋は庶民が遊ぶことを許され、冬春は将軍が遊猟をしました。
神田川の上を懸樋が通り、中を神田上水が流れています。橋桁の間から見える遠景の橋が水道橋で、この景観は江戸の名所のひとつとなっていました。神田川は二代将軍秀忠の時代に、水害防止と江戸城外濠を兼ねてできた川で、隅田川につながっています。その際にできたのが描かれている渓谷です。
神田川を前景にした湯島の聖堂全景です。上野忍岡(しのぶがおか)の林羅山(はやしらざん)の家塾であったものを、元禄3年(1690)に湯島に移転させて聖堂と称しました。寛政時代に幕府の直轄学校として開設され、漢文の素読吟味が行われた昌平坂学問所は左手の「此辺学問所」と書かれたあたりにありました。本書では「本邦第一の学校にして実に東都の一盛典なり」と記しています。
江戸の町からよく見えた富士山は、江戸の人々には憧れの的でした。6月1日のお山開きには家々の軒下で線香を焚いて遥拝し、市中の浅間神社(せんげんじんじゃ)には江戸っ子が群集しました。また、富士山に行くことのできない人々は、富士山を模して各地に作られた富士塚という小さな山に登り、富士詣をしました。
高輪の大木戸は、東海道からの江戸市中への入口でした。宝永7年(1710)に街道の左右に石垣が築かれ、高札場(こうさつば)がありました。石垣の後ろは海です。東海道を西へ旅する人を見送る人々がここで宴会を催すなど、常に繁昌していました。伊能忠敬はここを基点として全国の測量を行ったといわれています。
目黒不動堂は泰叡山滝泉寺(たいえいざんりゅうせんじ)と号し、天台宗で東叡山に属していました。慈覚(じかく)大師の開山で、不動明王を本尊としています。境内にある独鈷(とっこ)の滝では修行者たちが水垢離(みずごり)を行っていました。江戸中期以降は、現世の御利益(ごりやく)を求めて群集が門前市をなしたといわれ、門前には町並みも形成されていきました。
鮎は多摩川の名産品でした。本書には初夏のころから晩秋にいたるまで、江戸っ子が、遠いことも厭わず多摩川に来て遊猟をした、と書かれています。
十軒店(じっけんだな)では春の雛祭りの前には雛市(ひないち)が、初夏の端午の節句の前には五月人形の市が立ち、大変な賑わいを見せていました。雛市は尾張町(おわりちょう)、浅草、池之端(いけのはた)、麹町(こうじまち)、駒込などにもありましたが、十軒店には及ばなかった、と『江戸名所図会」に書かれています。現在の日本橋室町(にほんばしむろまち)3丁目あたりの中央通りの両側にあった町です。
馬喰町(ばくろうちょう)は、古くは博労町と書かれ、馬市(うまいち)が立つところでした。一丁目から四丁目まであり、三丁目北側には、“関ヶ原の戦い(慶長5年(1600))”の前に馬揃(うまぞろ)えがなされたという初音(はつね)の馬場(追回しの馬場ともいう)がありました。江戸中期以降は旅籠(はたご)も集中し、馬喰町を起点とした江戸めぐりの案内書なども発行されています。現在の日本橋馬喰町1丁目にありました。
江戸時代後期、江戸で作られた浮世絵は色彩が豊かで「錦絵」と呼ばれ、江戸土産(えどみやげ)として人気がありました。売り出したのは地本問屋(じほんどんや)または絵草紙屋(えぞうしや)と呼ばれる、江戸独自の出版物を扱う版元で、江戸文化の発展に大きく貢献しています。この絵は、通油町(とおりあぶらちょう)で店を開いていた鶴屋喜右衛門(つるやきえもん)の店先です。京都の出店(でみせ)で、書物問屋(しょもつどんや)と地本問屋を兼ねていました。