東京名所之内 銀座通煉瓦造鉄道馬車往復図(とうきょうめいしょのうち ぎんざどおりれんがづくりてつどうばしゃおうふくず)
歌川広重(うたがわひろしげ)(三代)画 明治15年(1882)刊 東京誌料 0422-C28

 本図は『東京銀座要路煉瓦石造真図』から約10年後の銀座の町並を描いたものです。空家の多かった煉瓦街も、この絵の描かれた頃には商店や会社が軒を連ねるようになり、その後東京随一の繁華街に成長していきました。


 外国から流れ込んでくる文明は、人々の生活様式、風俗を絶えず変えていきましたが、道路交通の変化もその一つです。江戸時代には市中の交通は、徒歩や駕籠が基本でしたが、新時代になって、馬車、人力車といった乗り物が人々の間に浸透し、幹線道路に鉄道馬車が走るようになりました。
 この絵にある新橋と日本橋を結ぶ鉄道馬車が営業を開始したのは、明治15年(1882)のことです。停留所は基本的に汐留本社、新橋、終着地のみで、途中の停留所は存在せず利用者が降りたい所を車掌に言えば下車できたそうです。 
 画面左端の建物は朝野新聞の社屋、その隣は人力車製造工場です。また街頭に見えるガス灯も、文明開化の象徴として、明治7年に完成しました。

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