安政午秋頃痢流行記(あんせいうまのあきころりりゅうこうき)
紀のおろか(きのおろか)序 安政5年(1858)刊 東京誌料 771-8

 安政5年(1858)のコレラの流行時の江戸の様子を記録したものです。コレラは死亡率が高く、感染すると発病三日以内に死亡するため、「三日コロリ」と呼ばれました。この時の江戸での死者は、およそ三万人と言われ、火葬場は棺桶であふれました。


 日本で初めてコレラが流行したのは、文政5年(1822)のことです。コレラは死亡率が高く、感染すると発病三日以内に死亡するため、「三日コロリ」と呼ばれました。このときの流行は、西日本が中心で江戸に到達することなく終息しました。しかし、安政5年(1858)6月に長崎から始まったコレラの流行は、7月には江戸にまで拡大し江戸の町中に広まりました。本書には、そのときの江戸の様子が記録されています。
この絵は、火葬場が荼毘(だび)を待つ棺桶であふれている様子を描いたものです。この時の江戸での死者は、およそ三万人と言われており、埋葬、火葬もままならず、火葬場に入りきらない棺桶は火葬場近くの道の傍らに積まれているような状態でした。不安に駆られた人々は神仏にすがり、江戸市中では八ツ手(やつで)の木の葉、みもすそ川(伊勢神宮内宮を流れる五十鈴川の別名)を詠んだ御札、にんにくの黒焼きがコレラ除けの定番として流行しました。
その後も文久2年(1862)以降、数年おきにコレラの流行は繰り返されました。

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