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江戸から東京へ 八王子から始まる『絹の道』

八王子から始まる『絹の道』(テキストp.46〜47)

幕末、八王子の生糸を横浜まで運んだ「絹の道」。
八王子は織物の町だったことがわかる。

『多摩の百年 下 絹の道』 朝日新聞社 1976.11

『多摩の百年 下 絹の道』の表紙

「絹」は、太平洋戦争にいたるまで、日本の輸出産業の花形として「大日本帝国」を支えた。明治から大正、昭和にかけての「多摩の民」は、なによりも「絹の民」であり、とりわけ女たちは重労働に耐えた。

『絹の道』 東京都立秋川(全寮制)高等学校図書館 1977

『絹の道』 の表紙

横浜開港は、幕末の日本に芽生えた資本主義経済を一気に発展させた。横浜には安い日本の絹を求めて外国船が殺到し、絹は怒涛の勢いで海外に輸出され、当時の生糸集散地・八王子と横浜を結ぶ道も「絹の道」としてにぎわうようになった。その繁栄から没落までの記録。

『手仕事の現在:多摩の織物をめぐって』 田中優子編 法政大学出版局 2007.5

『手仕事の現在:多摩の織物をめぐって』の表紙

八王子織物を中心に、多摩の織物史を今に伝える手仕事の実際。織物や手仕事を経済効果だけを目的とした産業とは捉えず、新しい価値観を見出そうとしている。

『江戸の貨幣物語』 三上隆三著 東洋経済新報社 1996.3

『江戸の貨幣物語』の表紙

開港後、輸出が増大した生糸は、価格が上昇した。一方、絹織物の産地では、生糸の値上がりで経営不振に陥った。幕府は貿易を統制したが効果があがらない。貨幣を通してみた江戸時代。

『ペリー来航と八王子:鑓水御林よりの御台場御用材伐り出し』 古文書を探る会 1979

『シュリーマン旅行記清国・日本』の表紙

幕府は、嘉永6年(1853)、ペリー来航による海防強化のため、御台場築造をはじめた。八王子にも出稼ぎや上納金が命じられ、さらに鑓水(やりみず)村には、基礎用材として天領の御林から松丸太の伐り出しが命じられた。連日、近隣の村で多くの農民が立ち働いた。

『シュリーマン旅行記清国・日本』 ハインリッヒ・シュリーマン[著] 講談社 1998.4

『シュリーマン旅行記清国・日本』の表紙

トロイア遺跡の発掘で有名なハインリッヒ・シュリーマンが、遺跡発掘前の1865年6月、絹の生産地である大きな手工芸の町八王子を訪れた。八王子の寺や桑畑が清潔で整然としている様子など、庶民の生活・風俗を精密に書いている。

『洋学と異人さんと八王子 世界史の視座から』 香川節著 かたくら書店 1991

『洋学と異人さんと八王子 世界史の視座から』の表紙

江戸幕府が鎖国を解いた後、八王子ではじめて迎えた西洋人の一人に、アメリカの地質学者レフェイアェル・パンペリーがいる。パンペリーは八王子訪問で、竹や草で編んだ生垣のある農家の美しさに感嘆し、貴重な記録を書いている。

『多摩:歴史と文化の散歩道 西多摩編』 角川グループパブリッシング(発売) 2009.11

『多摩:歴史と文化の散歩道 西多摩編』の表紙

「絹の道」を歩くための写真と文によるガイド。かつて輸出用の生糸を扱う商人が行き来した道が「絹の道」と呼ばれ、現在は市の史跡に指定されている。八王子近郊だけではなく、長野や山梨、群馬などで生産された生糸がこの「絹の道」を通って横浜に運ばれた。

「絹の道 東京都八王子市」
(『サライ』 21巻12号 通巻498号(2009年6月18日) p.56)

八王子は、江戸中期から絹の産地として知られ、別名を蚕に与える桑の葉が広がる風景から「桑都(そうと)」と呼ばれた。幕末に横浜が開港(1859)すると、生糸を扱う鑓水商人が輸出用の絹を横浜まで運んだ道が、今も八王子市鑓水地区に残っている。写真と文による案内。

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