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Q2 甲良家は江戸時代どこに住んでいたか。

江戸時代の住所について

以下の資料に次のような記載があり、拝領屋敷は神田皆川町であった。甲良家は町人であるが、資料1のp128-129によると、拝領屋敷・切米を給されており、武士並みの俸禄と地位を認められていた。以下、年代、大棟梁名、屋敷地、記載事項、出典『史料』の順に記す。

1 元禄十年八月(1697) 甲良豊前(3代宗賀) 永富町

資料2「徳川綱誠其他屋鋪給賜。(中略)甲良豊前屋敷坪数百坪。東、狩野梅雲。西、辻養作。南、道。北、長曽根才市。(中略)永富町堀田伊豆守殿・酒井石見守殿・神尾伊賀守殿・遠山御権左衛門殿四人之上ケ屋敷之内ニ而今度銘々屋敷拝領仕候。」『屋鋪渡預絵図證文』、『屋敷書抜』にも同内容の記載あり。以上は資料3の目次明細から屋敷地の項を調査した。

2 文化元年〜十四年(1804-1814) 甲良筑前(8代棟村) 六間ほり

資料4、5、6、7 「御作事方大棟梁 甲良筑前 (百俵 六間ほり)」『文化武鑑 文化元年巻之三〜文化十四年巻之三』
3 文政元年〜二年(1818-1819) 甲良筑前(8代棟村) 六間ほり
資料8 「御作事方大棟梁 甲良筑前 (百俵 六間ほり)」『文政武鑑 文政元年巻之三〜文政二年巻之三』

4 文政三年〜八年(1820-1825) 甲良吉太郎(9代棟彊) かんた新はし

資料8、9 「御作事方大棟梁 甲良吉太郎 (百俵 かんた新はし)」『文政武鑑 文政三年巻之三〜文政八年巻之三』

5 弘化四年十二月(1847) 甲良若狭棟全(10代) 皆川町

資料10 「高百俵 本国近江 生国武蔵、拝領屋敷神田皆川町坪数百坪」『由緒書』10代棟全
(注1)皆川町と永富町 皆川町は江戸期〜昭和10年の町名、宝永年間(1704-11)頃武家地跡に起立、鎌倉河岸北側、三河町2丁目の東側にあった。永富町は江戸期〜昭和9年の町名、鎌倉河岸の北に他町と入り組む形で1〜4丁目があった(資料11)。両町は、神田橋御門外に東接する地域で、現在の内神田一丁目〜二丁目にあたる。資料12によると、「元禄十丑年之形」(1697年)では永富町の西に皆川町があるが、「元禄年中之形」(1688〜1704年)では皆川町は記載されてなく、そのあたりは「堀田相模守」の屋敷となっている。
(注2)「由緒書」 資料1では7代棟政自記の「由緒書」を引用している。
「延宝元年丑十二月(中略)御切米百俵被下置候旨(中略)、拝領屋敷神田皆川町ニ而被下置候」

6 甲良屋敷

上記の拝領屋敷のほかに、甲良屋敷と称するところが二ヶ所ある。(1)市谷甲良屋敷 (現 新宿区市谷柳町、市谷甲良町)
資料13、14によると、徳川家の老女栄順尼の拝領屋敷だったところが、元禄13年(1700)甲良豊前(4代相員)に譲られ、正徳3年(1713)町奉行支配に転じた。資料15によると、甲良家は切米百俵だけでは配下を養っていけないので、地貸しを許されていて、その地に町人が住んだことから町奉行支配となり、この地域を甲良屋敷と言うようになった、とある。『市ヶ谷牛込絵図』(安政4年尾張屋版切絵図)(請求記号東0443-4ア)にも、「市谷甲良屋敷」と記されている。
(2)千住牛田の甲良屋敷 (現 足立区千住旭町10-31 千寿第四小学校)
資料16・17によると、甲良屋敷跡の石碑が千寿第四小学校敷地内にあり、その石碑から千住宿東側裏の牛田と呼ばれた地に甲良家三代宗清(宗賀)が寛文10年(1760)に一万坪の別邸を建てた、と説明している。その石碑には、宝暦2年(1752)の銘があり、裏面には甲良屋敷沿革と屋敷図が記されている。
また、資料10の中の「御舘入仕御用相勤来候由緒書」に、以下の記述がある。
「高祖父若狭儀者御扶持方拾人分并千住牛田ニテ御地面頂戴仕相勤」
高祖父若狭は、享保3-20年(1718-1735)大棟梁職を務めた5代棟利と考えられる。

(平成18年12月追加修正)
5-2 弘化5年、嘉永元〜3年(1848-1850)甲良若狭棟全(10代) 両国矢のくら
資料18に「御作事方大棟梁両国矢のくら甲良若狭」とあり。
資料19の両国橋のたもと、萩原近江守屋敷の角から五軒目に「甲良」の文字あり。

5-3 嘉永4〜慶応4年(1851-1868)甲良若狭棟全(10代) かんだ新はし
資料20に「御作事方大棟梁甲良若狭かんだ新はし」とあり。

6(1)を修正し、市谷甲良屋敷(現 新宿区市谷柳町25番地)とする。
資料21に、「江戸時代の甲良屋敷は現在の市谷柳町二十五番地に該当し、現在の市谷甲良町は、江戸時代には御先手組と御持組大縄地にあたり、町域が異なっている。」とある。


  • 資料1 『建築雑誌』50輯609号(1936.2) p.123-129「江戸幕府大棟梁甲良氏について」(田邊泰)
  • 資料2 『東京市史稿 市街篇 第13』 東京市編 東京市 1931 (/0920/T727/T2-2-13;1124513187) p.351,363,367,372-374
  • 資料3 『東京市史稿 篇別目次総覧』 東京都編 東京都 1996.3 (R/0920/T727/T2-13A;1128458673) p.937-1225
  • 資料4 『文化武鑑 役職編 文化元〜4年』 柏書房 1981.11 (編年江戸武鑑;2) (R/2813/159/2;1122050747) p.75,173,272,371
  • 資料5 『文化武鑑 役職編 文化5〜8年』 柏書房 1982.2 (編年江戸武鑑;4) (R/2813/159/4;1122122766) p.78,186,299,410
  • 資料6 『文化武鑑 役職編 文化9〜12年』 柏書房 1982.6 (編年江戸武鑑;6) (R/2813/159/6;1122122784) p.84,191,301,410
  • 資料7 『文化武鑑 大名・役職編 文化13〜14年』 柏書房 1982.9 (編年江戸武鑑 ; 7) (R/2813/159/7;1122122793) p.190,412
  • 資料8 『文政武鑑 2 文政元年〜4年 役職編』 柏書房 1983.3 (編年江戸武鑑) (R/2813/180/2;1122122962) p.83,197,309,425
  • 資料9 『文政武鑑 4 文政5〜8年 役職編』 柏書房 1991.12 (編年江戸武鑑) (R/2813/180/4;1124788429) p.84,200,319,435
  • 資料10 『甲良家資料(東京都公文書館所蔵)』「明治四十二年八月関野貞原本ヨリ謄写ス」原本(CL8)、マイクロフィルム(江戸‐徳川幕政1 コマno.454-588)(当館未所蔵)
  • 資料11 『東京都』 角川書店 1978.10 (角川日本地名大辞典;13) (R/2910/367/13;5000643814) p.677
  • 資料12 『江戸城下変遷絵図集 御府内沿革図書 第5巻』 幕府普請奉行編 原書房 1985 (T/0・290/66/5;1124324457) p.90,95,97
  • 資料13 『東京都の地名』 平凡社地方資料センター編集 平凡社 2002.7 (日本歴史地名大系;13) (RT/290.1/5001/2002;5004680772)p.443
  • 資料14 『新宿区史;資料編 / 新宿区総務部総務課∥編集 / 新宿区総務部総務課, 1998.3(T/36・20/17/98-3;1128269193) p.14-15
  • 資料15 『試衛館史留越図』 あさくらゆう著 市谷柳町試衛館 2004.7(T/36・789/5001/2004;5011874533)p.1-2
  • 資料16 『足立区史跡散歩』 足立史談会編 学生社 1992.6 (東京史跡ガイド;21) (T/21・20/8/92;1124855423) p.77-79
  • 資料17 『記念碑等』 足立風土記編さん委員会編 足立区教育委員会 1992.3  (足立風土記資料;1 金石文) (T/21・20/3003/1;1124536341) p.37-39
  • 資料18 『江戸幕府役職武鑑編年集成』 29 弘化5年-嘉永3年 深井雅海編 東洋書林 1998.11(R/2813/3230/29;1128727225) p.56,236,416,504
  • 資料19 『江戸切絵図集成』 第2巻 斎藤直成編 中央公論社 1981.10(DT/0・290/61/2;1124324359) p.5「日本橋神田従於玉池矢ノ倉辺絵図」(嘉永3年近江屋板)
  • 資料20 『江戸幕府役職武鑑編年集成』 30 深井雅海編 東洋書林 1998.11 (R/2813/3230/30;1128727234)p.511 *36巻まで記述あり
  • 資料21 『東京の地名由来辞典』 竹内誠編 東京堂出版 2006.3 (RT/290.1/5010/2006;5012341431) p.138

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