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医王山国分寺は最勝院と号する真言宗の寺院です。もとは天平年間(729~749)、奈良の東大寺の大仏を建立させたことで知られる聖武天皇の勅願で創建された武蔵国の国分寺でした。元弘3年(1333)新田義貞の鎌倉攻めによって焼失した後に再建されました。
江戸時代、甲州街道府中宿の2kmほど北に大伽藍の跡がありました。礎石のほかに古瓦も残っており、瓦には武蔵国の郡名が記されていました。江戸時代後期は地誌がブームになったこともあり、このような旧跡の調査も各地で行われていました。
国分寺村にあったとされる炭窯とそこで働く人々の様子を描いたものです。八王子と並んで国分寺は炭作りの盛んな土地でした。
立川市柴崎町にある玄武山普済寺は臨済宗の名刹として有名な寺院です。江戸時代は多摩川を挟んで多摩丘陵や丹沢の山々、さらには富士山をも一望することができました。
柴崎町にあった八幡宮は建長4年(1252)に勧請され、本地仏として弘法大師が作った阿弥陀仏が安置されていたといわれる由緒ある神社でした。
一宮大明神とは現在の多摩市一ノ宮にある小野神社のことです。その起源は古く、8世紀中頃には創建されたと伝えられ、武蔵国にあった神社の中で最も格式の高い「一宮(いちのみや)」として国衙(こくが・政務を司る役所)の近くに建立されました。
元弘3年(1333)、新田義貞が鎌倉幕府を攻めた「関戸の戦い」と呼ばれる戦いにおいて、このあたり一帯は戦場となり、義貞軍が北条泰家軍を敗走させた後、本陣をここに置いたと伝えられています。これが「関戸天守台」という名前の由来で、現在の多摩市桜ヶ丘にある金比羅宮(琴平社)あたりが「天守台」と呼ばれ、一帯の山を「城山」とも呼んでいます。多摩川に面し、武蔵野台地を一望できる景勝の地でもありました。
青渭社とは調布市深大寺にある青渭神社のことで、古くから深大寺の総鎮守として信仰を集めていました。境内にあった大池の湧水が青波のように見えたことから青波天神社とも称されました。
深大寺(じんだいじ)は天平5年(733)に創建された古い歴史を持つ寺院です。江戸時代、深大寺の名を広めたのが明和2年(1765)と文化13年(1816)に両国の回向院で行われた出開帳です。江戸市中の人々が深大寺の元三大師(がんさんだいし)像の巨大さに驚愕したと言われています。
深大寺周辺の土地は米作りに向かなかったこともあり、蕎麦を作り、米の代わりに蕎麦粉を寺に納め、寺では蕎麦を打って来客をもてなしたのが、深大寺蕎麦の始まりと伝えられています。