「大江戸」の誕生
「大江戸」という言葉は18世紀中頃から使用されるようになりました。正確な数字は不明ですが、享保(きょうほう)期(1716~1736)頃には江戸の人口は100万人を超えたと言われています。1800年頃、北京の人口が90万、ロンドンが86万、パリが54万と言われていますので、江戸の町は江戸時代中期には世界的に見ても北京やロンドンを超えるほどの人口を抱える「大江戸」と呼ぶにふさわしい巨大都市となったと言ってよいでしょう。
急激な人口増加の背景には参勤交代の制度化があげられます。諸大名が江戸に住むということは、その家臣たちも、それにともなう物資も江戸に集まることを意味します。そして巨大な消費市場・江戸には上方産の「下り物(くだりもの)」とともに、周辺地域からの「地回り物」が多数供給されるようになりました。こうして18世紀の後半には経済的にも文化的にも上方を凌駕(りょうが)して日本の中心都市としての機能を果たすようになり、名実ともに「東都」の地位を確立することとなりました。
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