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今戸焼の正確な起源は不明ですが、下総国(しもうさのくに)千葉氏の家臣が石浜あるいは今戸に土着して、瓦や土器を造り始めたのが最初であるといわれています。瓦のほか、火鉢、雑食器、稲荷の狐や招き猫などの人形などを焼いていました。
日本橋は大江戸の中心であり、諸国への行程の起点でもありました。橋の上からは江戸城と富士山が望め、江戸が日本の中心であることを実感できる場所でした。本書には「橋の上の往来は貴賎問わず、間断なく、橋の下を行き交う船も朝から暮れまで轟々としてかまびすしい」と書かれています。橋の欄干には擬宝珠(ぎぼし)がつけられていましたが、これは橋の格を表すもので、日本橋のほかは京橋だけが許されていました。
堺町は江戸歌舞伎の始祖、中村勘三郎が寛永元年(1624)に創立した猿若座(のちの中村座)が慶安4年(1651)から芝居小屋を設けていた町です。また、葺屋町は芝居の江戸三座のひとつである村山座(のちの市村座)が寛永11年(1634)に堺町に建てた芝居小屋を移転して興行をした芝居町です。しかし、いずれの芝居小屋もこの絵が描かれた直後、天保の改革により、天保13年(1842)に猿若町に移転しました。
佃島は、徳川家康が江戸入府の際、摂津国(せっつのくに)の漁民を居住させ、漁業に従事させたのが始まり、と本書に書かれています。毎年11月から3月までの間、隅田川で捕れる白魚を江戸城に献上していました。
木挽町は芝居の森田座と山村座の芝居小屋があった町です。堺町(さかいちょう)・葺屋町(ふきやちょう)の中村座・市村座とともに江戸四座(しざ)として栄えましたが、山村座は正徳4年(1714)の絵島生島(えじまいくしま)事件により断絶し、以後、江戸の芝居小屋は三座となります。
太田道灌(どうかん 持資 1432~1486)は室町時代の武将で、扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の家老です。康正2年(1456)から長禄元年(1457)にかけて、江戸城を築城しました。この絵には、江戸城内の居所として造られた「静勝軒」(せいしょうけん 西を「含雪(がんせつ)」、東を「泊船(はくせん)」と名付けた)で詩歌を楽しむ道灌の姿が描かれています。
豊島屋酒店は神田川沿いの鎌倉町にあった酒店です。例年2月の末になると、雛祭りの白酒を買い求める人々が市をなしていました。
護持院原は神田橋と一ツ橋の間の御堀の外に広がる原でした。本書には「御溝(おんほり)の外の芝生を云ふ」と書かれており、芝生の広がる原であったことがわかります。享保2年(1717)に護持院が焼失した後、この地での再建は許可されず、空き地となったものです。景観もよく、夏秋は庶民が遊ぶことを許され、冬春は将軍が遊猟をしました。
神田川の上を懸樋が通り、中を神田上水が流れています。橋桁の間から見える遠景の橋が水道橋で、この景観は江戸の名所のひとつとなっていました。神田川は二代将軍秀忠の時代に、水害防止と江戸城外濠を兼ねてできた川で、隅田川につながっています。その際にできたのが描かれている渓谷です。
神田川を前景にした湯島の聖堂全景です。上野忍岡(しのぶがおか)の林羅山(はやしらざん)の家塾であったものを、元禄3年(1690)に湯島に移転させて聖堂と称しました。寛政時代に幕府の直轄学校として開設され、漢文の素読吟味が行われた昌平坂学問所は左手の「此辺学問所」と書かれたあたりにありました。本書では「本邦第一の学校にして実に東都の一盛典なり」と記しています。