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洲崎は古くは「深川洲崎十万坪」と呼ばれるほど広大な敷地を持ち、海を望むことのできる景勝地でした。初日の出、月見、潮干狩り、船遊びなど行楽の地として人気を集めましたが、寛政3年(1791)に起きた大津波によって甚大な被害を蒙り、幕府はこの地を居住禁止区域としました。
江戸の名産品として有名な浅草海苔の生産は18世紀に入ると品川や大森に移り、品川海苔の名前が生まれました。
海晏寺は江戸随一の紅葉の名所といわれています。境内には紅葉茶屋が設けられ、広大な庭を散策する人々で賑わいました。
神田上水と井草川が落ち合う落合あたりは螢の名所として知られていました。6月になると夕涼みや月見を兼ねて、人々が集まりました。
江戸市中に水を供給していた玉川上水沿いに植えられた桜を描いた作品で、現在の新宿御苑正門あたりを描いたものと考えられています。安政3年(1956)2月に植えられた桜並木は評判となりましたが、この桜を「御用木」とした高札が幕府の目にとまり、同年3月には撤去が命じられました。
妙法寺は杉並区堀ノ内にある日蓮宗の本山で、厄除けにご利益がある寺院として知られていました。
隅田川添いの堤防は桜の名所として有名ですが、ここに桜が植樹されたのには意味があります。花見客が堤防を歩くことで、堤防が踏み固められて丈夫になるという護岸整備の目的もあったのです。隅田川だけでなく玉川上水沿いに桜が植えられたのも同様の理由からといわれています。
「玉屋」「鍵屋」という花火見物の際の掛け声がありますが、これはともに花火師の名前です。鍵屋の六代目弥兵衛が両国の川開き花火を担当したことで、有名になりました。
上野東叡山は江戸城の鬼門の位置にあります。天海僧正の進言により、京都の町の鬼門にあたる比叡山に延暦寺が建てられているのにならい、上野忍が岡の大地を東の比叡山という意味で東叡山と号し、延暦寺に対して寛永2年(1625)に寛永寺を建立しました。
不忍池は蓮の名所で、島の茶屋では蓮飯を食べることができました。天海僧正が寛永寺を創建した時に、不忍池を琵琶湖に見立てて中島を築き、のちに弁天祠が移されました。当初は文字どおり船でしか渡れない島でしたが、寛文12年(1672)に石橋が架けられ、徒歩でも渡れるようになりました。