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現在、足立区千住橋戸町と荒川区南千住を繋ぐ千住大橋が隅田川に架けられたのは文禄3年(1594)のことです。現在の場所とは少し違っていますが、寛文元年(1661)に両国橋が完成するまでは、隅田川に架けられた唯一の橋でした。
足立区千住仲町にある氷川神社の境内に鎮座しているのが関屋天満宮です。和歌にも詠まれるほど風光明媚な名所でした。付近の葦は片葉であったので、「片葉の天神」とも呼ばれました。
荒川の下流で、隅田川や浅草川よりも上流あたりを千住川と呼んでいました。千住は川越と江戸を結んだ舟運の発着中継地であり、このあたりは高瀬舟の往来で賑わいました。
西新井大師堂は、平安時代に弘法大師・空海によって建立されたとされる真言宗の寺院です。毎月21日にはご本尊である弘法大師像が開帳され、厄災によく効くということで古くから多くの参拝客を集めていました。
千住宿からちょっと離れた場所にあった耆老茶屋(じじがちゃや)と呼ばれる茶屋を描いたものです。この茶屋には光り輝く名物の茶釜があったそうです。
「六阿弥陀廻」とは、春と秋のお彼岸の期間に、熊野から流れついた霊木で造られたという6体の阿弥陀像を祀った6ヶ所の寺院を巡り極楽浄土を願うことで、江戸の人々の行楽の一つでした。
「ひぐらしの里」とも呼ばれた日暮里が桜の名所となったのは、江戸時代中期のことです。多くの寺院が桜やツツジなどを植樹した庭園を競うように造ったことによって花見の名所になったといわれています。
谷中から道灌山あたりは寺院が密集する地域でしたが、とくに道灌山に向かう道の両側には経王寺、仁専寺、養福寺、妙隆寺、修正院、青雲寺など美しい庭園を持つ寺院が連なっていました。
荒川区西日暮里にある諏訪神社の境内から崖下の田んぼ、そして遥か遠くの筑波山を描いたものです。諏訪の台とは諏訪神社あたりの高台のことで、3月には八重桜の名所として花見客で溢れかえり、厄よけなどの願いを掛けて、素焼きや日干しの土器の杯や皿を投げる「土器(かわらけ)投げ」に興じる人々もいたそうです。
江戸時代の三河島(現・荒川区東日暮里)は鶴の飛来地で、毎年11月になると、竹の囲いをめぐらして、鶴の餌付けが行われていました。将軍が自ら鷹を使って鶴を捕獲し、朝廷に献上する「鶴御成(つるのおなり)」の猟場の一つでした。