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屋内の大掃除をして神棚をはらい清める年末恒例の行事、煤払い(すすはらい)の様子を描いた錦絵です。江戸時代、煤払いは12月13日に行うことが定められていたため「十三日節供(せっく)」などとも呼ばれる一種の神事でもありました。
今なお続く浅草の歳の市を描いた錦絵です。12月になると江戸のあちらこちらに、正月を迎えるための注連飾り(しめかざり)や神棚、羽子板、さらには食材まで、ありとあらゆる正月用品を売る市が開かれていました。
名所絵で有名な初代広重が描いた影絵で、おもちゃ絵の一種です。宴会などの席で人間が手や足、または小道具を使って雁や猫の格好をし、障子に映る影法師を楽しみました。
『千羽鶴折形』は寛政9年(1797)に京都で発行されたもので、1枚の紙で2羽~100羽の鶴をつなげて作る連鶴(れんづる)の作り方、49種を描いたものです。作り方といっても具体的な折り方の説明はなく、開いた紙にどのように切込みをいれるか、ということのみが示されています。それぞれの連鶴に、蓬莱(ほうらい)、稲妻、妹背山(いもせやま)、百鶴などという名前がつけられています。
「あをものうり(青物売り)」や「せとものうり(瀬戸物売り)」「まんぢう屋(饅頭屋)」などの物売りの姿を描いた絵の一部が文字になっています。文字を組み合わせて絵を描き遊びました。文字絵としてのおもしろさはもちろんですが、収載されている32枚の文字絵から、当時の物売りや職人の風俗も知ることができます。
「智恵の板」とは正方形の板を7つに切り、その7片を並べかえて、色々な物の形を作って遊ぶパズル形式の玩具です。
行灯に火を付ける女性と千住の町並みを描いた作品です。千住宿は日本橋から二里(一里は約4Km)にあり、奥州街道・日光街道の起点として繁昌しました。
現在、足立区千住橋戸町と荒川区南千住を繋ぐ千住大橋が隅田川に架けられたのは文禄3年(1594)のことです。現在の場所とは少し違っていますが、寛文元年(1661)に両国橋が完成するまでは、隅田川に架けられた唯一の橋でした。
足立区千住仲町にある氷川神社の境内に鎮座しているのが関屋天満宮です。和歌にも詠まれるほど風光明媚な名所でした。付近の葦は片葉であったので、「片葉の天神」とも呼ばれました。
荒川の下流で、隅田川や浅草川よりも上流あたりを千住川と呼んでいました。千住は川越と江戸を結んだ舟運の発着中継地であり、このあたりは高瀬舟の往来で賑わいました。