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二之江から今井、船堀、桑川といった江戸川の村々で作られた海苔は「葛西海苔」と称され、「浅草海苔」と異なった紫菜であったそうです。
平井聖天宮の正式名は燈明寺と言い、縁結び・厄除け開運の仏として古くから信仰を集めてきました。現代でも浅草の待乳山聖天(まつちやましょうてん)、熊谷の妻沼聖天(めぬましょうてん)とともに、「関東三聖天」のひとつといわれています。
会式(えしき)とは日蓮上人が亡くなった10月13日前後に、遺徳を偲び日蓮宗の寺院で行われる法要のことです。池上本門寺は、日蓮上人終焉の地に建立されたお寺として、その会式も盛大に行われ、数多くの参拝者が訪れました。
蒲田に梅園ができたのは文政年間(1818~1830)のことで、薬屋を営んでいた山本忠左衛門という商人が、敷地内に梅や多くの木々を植え、茶屋を開いたことが始まりだといわれています。
現在の池上通り、大田区山王あたりの坂道を八景坂と呼んでいました。ここから「笠島夜雨、鮫洲晴嵐、大森暮雪、羽田帰帆、六郷夕照、大井落雁、袖浦秋月、池上晩鐘」という8つの美しい風景が見えることから、八景坂と呼ばれるようになったといわれています。
千束池(洗足池)という名前の由来は、日蓮上人が身延山久遠寺から茨城へ療養に向かう途中、旅の疲れを癒す為に足を洗ったという伝説によるものです。その時、日蓮上人が脱いだ袈裟を掛けたという松が袈裟懸けの松です。
江戸時代後期、多摩川の河口には広大な洲が形成されていました。 この洲の南の先端に羽田弁天(玉川弁才天)と呼ばれる古い弁天堂がありました。
江戸の土産物として人気が高かったのが浅草海苔です。江戸時代中期以降になると、その製造は主に大森や品川で行われていました。古くは浅草で製造されていたため浅草海苔と呼んでいたようです。
大森の名産品である麦わら細工が作られるようになったのは江戸時代中期のことです。東海道筋の土産物として旅人に人気がありました。
堀切の花菖蒲は、江戸名所の一つとして、江戸時代のみならず明治・大正期まで多くの人々がこの場所に訪れたほどです。