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双六にあらわれた桃太郎

双六にあらわれた桃太郎 松村倫子

お正月の遊びといえば、外では凧上げ、独楽回し、羽根つき、家では双六に福笑いと言うのが定番であったのはいったいいつ頃までのことでしょう。でもテレビゲームやファミコンが幅をきかす近頃の子供たちを除けば、誰でも子供時代、双六を囲み、賽の目に一喜一憂したお正月の思い出があるのではないでしょうか。
いまではあまり遊ばれなくなった双六ですが、都立中央図書館特別文庫室には、江戸時代から明治、大正、昭和にわたる700点を越える双六が所蔵されています。その内容は実に様々で、非常に興味深いコレクションです。その諸相をご紹介するのは別の機会に譲るとして、ここでは、子供の絵本とも関係の深い一枚の双六を取り上げてみたいと思います。

「昔ばなし出世双六」の画像

「昔ばなし出世双六」と題するこの双六は、武者絵で有名な歌川国芳の弟子で、幕末に活躍した歌川芳艶が描いたものです。出版許可の印である改印は、つぶれていてはっきりしない部分もありますが、「申」と「改」の文字が確認でき、万延元年であることがわかります。ところが使用されている色は、やや毒々しい赤色が目立ち、明らかに明治に入っての摺りであることを示しているのです。その上改印の周囲には埋木した跡があり、もともとは万延元年よりも以前に刊行された可能性もあります。いずれにせよ版面の痛み具合からみて、かなりの数が摺られたようです。さぞ子供たちに人気があったのでしょう。

最近の子供たちでも、さすがに桃太郎の話を知らない子はいないと思います。この双六は題名には明示されていませんが、全37マス(桝目)、桃太郎のストーリーを追って展開しています。ふり出しから順に見ていくことにしましょう。

3人の子供が桃太郎の絵本を囲み楽しそうに語らう場面から「ふり出し」ます。以下マスの見出しに沿って話を追ってみます。「くさかり」「せんたく」は、「おじいさんはやまへしばかりに、おばあさんはかわへせんたくに」というおなじみの語りだし、そこへ大きな桃が流れてきます。「ぢゝばゝ」では二人の前に大きな桃が置かれ、次は桃が割れ桃太郎が生まれる「出生」。桃太郎は産湯のたらいを持ち上げ、おじいさんは屏風の上にひっくり返り、おばあさんは腰を抜かしています。独楽やでんでん太鼓で遊ぶ「桃太郎」、次の「絵図」では鬼ヶ島へのルートを調べるためでしょうか、絵図に見入っています。この部分には「艶豊画」の文字が見えます。艶豊は双六全体の画工である芳艶の門人の一人で、こうした作品の一部を門人に描かせることは、一般の錦絵などにも見られ、作画修行の一段階だったようです。たくましい桃太郎は「ちからだめし」と岩を打ち砕き、おじいさんとおばあさんに「だんご」を作ってもらい、二人に見送られて「門出」します。りりしい姿で「旅だち」した桃太郎に、まず「きじ」が供になり、「日本一」の団子をもらいます。続いて「さる」「いぬ」も加わるのですが、犬はどこかの飼い犬だったのでしょう赤い首輪をしています。「大将」「とを見」とすっかり装備を整えた一行は、船の帆をあげ「出ふね」しますが、「沖中」では大波にもまれ難渋します。この盛りあっがた大波は、芳艶の師匠国芳の得意とした波の描写を彷彿とさせます。「此ところへ参り候御方はなん風にて一と廻りやすみ」の詞書がありますから、鬼が島はどこか南海の島だと認識されていたのでしょう。ともかくも岩場に「舟着」した一行は、「山みち」を登っていきます。そこには「関所」があり、犬が上書を鬼の「役人」に差し出しています。これでは許可を得て鬼の棲家に至ったようで少々おかしく思われますが、敵を欺いてその棲家に入る源頼光の大江山鬼退治の影響が感じられます。「入口」「嶺山」と進み、片手で「石門」の大扉を破る桃太郎のスタイルは、朝比奈の門破りの形に擬しています。「うち入」る犬、「勇戦」する桃太郎。「此所にて一ツをふれば上り」というわけで一気に上がることができます。猿雉も「手がら」「はたらき」を見せ、「勝どき」をあげる一行に、鬼たちは「降参」します。「行れつ」を作っての「帰り道」、鬼たちに様々な「たから物」を「けん上」させ、大将風の立派な桃太郎と後ろに控える三匹の前には山なす宝物があり、おじいさんとおばあさんは大喜びで「上り」となります。

まるで絵本をめくっていくように桃太郎の話をたどることのできる双六です。かなり細分化しているため、一つの場面を分割するなど工夫して描いていますが、鬼が島へ着いてからの行程にややもたついた感があるようです。

桃太郎といえば、五大昔話の筆頭にあげられるほど子供たちにはなじみぶかい話です。この双六が作られた江戸時代にも、赤本をはじめとする草双紙類に取り上げられることはよくありました。草双紙の流れは、大雑把に、赤本、黒本、青本、黄表紙、合巻というように、その形態と内容を変化させ展開し、明治の巖谷小波の作品にまで影響を及ぼしています。その他草双紙の流れと密接な関係を持った江戸末期に多く見られる小本型の子供絵本、通常〈豆本〉と呼ばれる一群があり、そのいずれもに桃太郎は、ある時はオーソドックスなストーリーで、ある時はパロディーや後日談などの形で登場します。これらについては、近年の草双紙研究の隆盛もあって多くの研究成果が報告されています。

ところで、現在ではあたりまえのように思っている、桃から桃太郎が生まれるという設定は、近世では一般的ではありませんでした。流れてきた桃を拾って帰り食べると、おじいさんおばあさんは若返り、桃太郎が生まれるという形があったのです。これを回春型、桃から生まれるほうを果生型と称しています。赤本から黄表紙期の作品は回春型ですが、合巻期の『赤本再興/桃太郎』では、小さな桃を二つ拾って帰り、一つを食べて若返り、もうひとつを米びつに入れておくと大きくなり割れて桃太郎が生まれ、『桃太郎一代記』では、桃から生まれるのですが、その桃を食べると若返るという折衷型が登場します。そして〈豆本〉では、回春型もあり、完全な果生型もありますが、明治以降は果生型が一般的となり、現在では回春型はほとんど知られていないようです。

また「出生」の場面で桃太郎が産湯のたらいを持ち上げその怪力ぶりを見せていますが、このパターンは豆本の『桃太郎宝蔵入』(天保4・5年頃刊)や、上記の『桃太郎一代記』にも見られます。また豆本『絵本桃太郎』では、出生時ではありませんが、「あるときばゝがゆをあぶせけるに ばゝつむりよりゆをかけければ もも太郎大におこり そのたらいをふりまわし」として、たらいを持ち上げ、おばあさんに足をかけた姿が描かれています。これは青本『風流/弁慶誕生記』にもある絵柄です。桃太郎や弁慶を始めとする特異な生まれ方をする話を異常出生譚と呼んでいますが、生まれた子は幼時から特別な力を発揮します。それは岩や大木、大きな動物を持ち上げるといった形で表現されることが多いのですが、出生間もなく身近なたらいを持ち上げる形は印象的です。

他にも、供の犬猿雉に別の動物が入ったり、鬼を退治に行くことになる理由や鬼が島への経路など、比較していくとおもしろい問題点がいろいろあります。

明治以降の桃太郎は、時代の波にもまれ、時には教訓的に、あるいは軍国主義的に扱われたりもしました。桃太郎のその後の運命については、滑川道夫著『桃太郎像の変容』などに詳しく載っています。

ここでまた話を戻しますが、この双六、内容は完全な桃太郎なのに題名は「昔ばなし出世雙六」となっています。鬼を平伏させ、宝を得て故郷に錦を飾る様を出世と見たのです。出世双六として括られる双六は、江戸時代からかなり作られてきました。紆余曲折を経て、上りに到達する双六の形とマッチしたからでしょう。双六には、大きく分けて「飛び双六」と「廻り双六」という形式があります。飛び双六は、各マスに、賽の目の数とそれに対応する移動先のマスが指定され、その指示に従って飛び進みます。廻り双六は、賽の目の数だけマスの順に沿ってコマを進めるもので、通常外側から中央の「上り」に向けてらせん状にマスが並んでいるため廻るように進みます。この「昔ばなし出世雙六」は廻り双六です。

この辺で少し双六の歴史について触れておきたいと思います。双六と言えば、賽を振り紙上のコマを進めて上りの早さを競うゲーム、すなわち絵双六を思い浮かべるのが普通でしょう。しかし本来双六とは、長方体の盤を挟んで二人で行う盤双六を指していました。この盤双六は、日本で最も古い盤上遊戯と言われ、古代・中古・中世を通して各階層に愛好されたようですが、賭博性の強さからしばしば禁令の対象となっています。近世に入ってからは賭博性はやや薄れ、むしろ女子の芸事の一つにも数えられるようになりました。
その後、盤双六は次第に衰退していきますが、それとは逆に、近世になると、紙の増産や印刷術の普及に伴って絵双六が広く行われるようになります。賽の目によってコマを動かすという遊び方の共通性から、これも双六と称されたようで、直接の関係性はないと考えられています。最も古い絵双六は、仏教の世界観を絵で表した「浄土双六」と呼ばれるもので、『ときくに言国卿記』文明6年(1474)の条にこれを行ったという記録があることが知られていますが、庶民の間での盛行は、江戸時代の万治・寛文の頃(1658〜1673)でした。

18世紀になると、浄土双六は勢いを失い、代わって道中双六や役者の双六などが登場、やがて名所、出世、歴史、文芸など様々な主題へと広がっていきます。今では、双六は子供の遊びと思われがちですが、これらの様々な双六を見ていると、とても子供向きとは考えられないものもあります。しかし近世においては、前述の草双紙なども含め、現在ほど大人用、子供用といった線引きはなく、大人も子供も楽しんだようです。

明治も後半になると木版に代わって機械印刷が主流を占め、双六も印刷によるものとなってきます。次いで大正から昭和初期にかけて、大衆・文芸・婦人・少年少女と各層向けの雑誌が多種刊行され競い合うなか、少年少女雑誌の正月号付録の定番として、双六は子供たちの間に深く浸透していきました。特別文庫室にもこうした付録の双六が多く所蔵されています。その中でも、大正13年1月号付録が50数点の多きを数え、帝都復興をテーマとした双六や「震災類焼ニ付キ左記ニ移転仮営業所...」と記されたものもあり、時事性を感じさせます。

双六はすたれゆく遊具ではありますが、このお正月注意して見ていると、まだまだどこかで目にするのではないでしょうか。姿を変えてファミコンの中に甦っているかもしれません。

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