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講演 アストリッド・リンドグレーン 『遊んで、遊んで、遊びました』を中心に

平成18年度「子どもの読書に関する講座-公開講座」

講師 うらた あつこ 氏

*この記録は、そのときのお話を、講師のご了承を得て児童青少年資料係でまとめたものです。

講師紹介

うらた あつこ 氏

翻訳グループ「むろの会」所属。『遊んで、遊んで、遊びました 〜リンドグレーンからの贈り物〜』(シャスティーン・ユンググレーン著、ラトルズ)、『馬小屋のクリスマス』(アストリッド・リンドグレーン文、ラーシュ・クリンティング絵、ラトルズ)を翻訳。

『遊んで、遊んで、遊びました』の翻訳について

本を紹介する、うらたあつこ講師の写真

本を紹介する、うらたあつこ講師

『遊んで、遊んで、遊びました』は、2005年11月14日、リンドグレーンが存命なら98回目の誕生日にあたる日に刊行されました。私はこの本の原書に出会ったときから、日本の読者にぜひ紹介したいと思っていました。けれどもリンドグレーンの作品が今、どれほど読まれているのかわかりませんでしたし、作品そのものではないので心配でした。でも予想以上にたくさんの方に読んでいただけ、さすがリンドグレーンはすごいとうれしく思っています。
本の感想やリンドグレーンの作品を読んだ頃の思い出など、たくさんの方から、メールや手紙をいただきました。今、子どもたちは大変きびしい状況に置かれていますが、そのことに触れたものもたくさんありました。学校図書館の司書の方からいただいた手紙に、気持ちを打たれましたので、一部をご紹介します。

この本が来た日、丁度、講演会がありました。講師の方が『遊んで、遊んで、遊びました』の本の話をして、子どもにとって遊ぶことがいかに大事なことか、子どもは遊んで、遊んで、遊びまくるものだ、ということを力説しました。若いお母さんたちはその話に安心したり、うなずいたり、ほほえんだり。(中略)
学校にいると、何か子ども時代が大変そうで、授業も、休み時間も、放課後も、子どもの困った話がいっぱいで、教師も疲れ果てていて、きっと親も疲れはて、世の中には、10代の少年少女の事件が続出しているし、どのニュースにも「まじめで、いい子だった。こんなことをするとは思えない」とかかれていて、子どもをもつ親たちは不安でいっぱいなんだろうな、その不安が子どもに伝わって、身動きが取れなくなっているんだろうな、なんて。そんなときに「遊んで、遊んで、遊びました」なんていわれると、ふっと肩の荷が下りるんじゃないかと思いました。

『遊んで、遊んで、遊びました』との出会い

私は、1999年6月にこの本に出会いました。読書会の友人たち4人で、リンドグレーンの生まれ育ったスウェーデン南部のスモーランドにあるヴィンメルビーという小さな町を訪れ、そこにある彼女の90歳の誕生日を記念して建てられたリンドグレーン・ゴーデンという記念館でこの本を手に入れました。そして、家に帰ってきてすぐ読みました。

原題は『Läs om Astrid Lindgren』といい、「アストリッド・リンドグレ-ンのことについて読もう」という意味です。リンドグレーンの本の出版を一手に引き受けているラべーン・オク・ショーグレーン社の創立40周年を祝って出版された本です。私が知りたいと思っていたことが本当によく書かれていました。日本でもリンドグレーンの作品はかなりの数、翻訳されていますが、当時、彼女自身について書かれた本は本当になかったのです。ですからその年の11月に岩波書店から『ピッピの生みの親 アストリッド・リンドグレーン』を出たときは、すぐ買って夢中で読みました。リンドグレーンについていろいろなことがわかりました。それでも私は『遊んで、遊んで、遊びました』を日本の人に紹介したいと思いました。

なぜかというと、リンドグレーンは、子どもたちに愛される作品が書けたのは、自分が幸せな子ども時代を送れたからだと何度も言っていますが、『遊んで、遊んで、遊びました』には、その幸せな子ども時代について、大変よく書かれていると思ったからです。この度、思いがけず出版でき、多くの方々に温かく迎えていただけて、うれしく思っています。

著者 シャスティーン・ユンググレーン

原書は、1992年に、リンドグレーンが84歳のときに刊行された本です。著者のユンググレーンは、フリージャーナリストで、当時53歳でしたが、彼女がリンドグレーンのマンションを訪れて質問をし、それにリンドグレーンが答える、という形になっています。リンドグレーンの熱心なファンで、リンドグレーンは一体どんな人なのか、なぜあのようなすばらしい作品をつぎつぎに生み出すことができるのかなど、知りたいと思っていたといいます。初めてリンドグレーンと実際に会って、貴重な体験ができ、さまざまなものをもらえた。何度かしか会っていないのに、自分のことを誰よりも理解してもらえた気がすると言っています。

アストリッド・リンドグレーン-その子ども時代

さて、本題に入ります。リンドグレーンは一体どんな人だったのでしょう。彼女は1907年11月14日、スモーランド州のちいさな町、ヴィンメルビーの郊外のネース農場で生まれました。
父サムエル・アウグスト・エリクソンと母ハンナ・エリクソンは農業に従事していました。ふたりはお互いを信頼しあう仲のよい夫婦で、よく働くしっかり者として人望を集めていました。おとうさんは教会の教区の役員など、地域の仕事もたくさん引き受けていました。子どもたちにもとても人気のあり、我が子に限らず、子どもというと本当に可愛がったようです。サムエル・アウグストが馬車で通ると、みんな乗せてくれと馬車を追いかけたというエピソードが残っています。いつも幸せな気持ちでいられる人でした。お話を語るのが大好きで、子どもだったころのことや、昔話や言い伝えなどを楽しそうにたくさん話したということです。

おかあさんは口数の少ない静かな人でした。子どもたちが約束を守らないで夕食の時間に遅れると、食料部屋でひとりで食べさせるという厳しい面を持っていましたが、もともと子ども思いの優しい人で、「子どもは遊べないようではだめ」という信念を持っていました。子どもに無理なことはけっしで要求せず、あたたかく見守っていました。
アストリッドは4人兄弟の2番目。兄グンナル、アストリッド、妹スティーナ、妹インゲヤードの、あまり年が離れていない4人は仲がよく、いつも一緒に遊び、両親の愛情をいっぱいに受けて伸び伸びと育ちました。ユンググレーンは、リンドグレーンに、最初に「世界中の子どもたちに愛される作家になったのはなぜでしょう」という質問をしていますが、リンドグレーンは「それは幸福な子ども時代を過ごしたからじゃないかしら」と答えています。

「両親と一緒だったので、私たちは安心していられました。父と母は、お互いに連絡し合って気を配ってくれていましたし、私たちが必要とするときには、いつも近くにいましたから。でも、たいていは、ネース農場というすばらしい遊び場の中を、自由に楽しく駆け回らせてくれました」(『遊んで、遊んで、遊びました』p.23)

彼女がいう幸せな子ども時代とは、ひとことで表現すると、自由と安心が保障された子ども時代ということです。自由にのびのびと遊ばせてもらえるけれど、いつでも安心して帰っていけるより所があることだと思います。
遊んで、遊んで、遊びましたとは言うものの、子どもたちはちゃんと手伝いもしています。この時代には、子どもも立派な働き手でした。鶏の餌にするイラクサ摘みや、カブラ抜きは子どもたちの仕事でした。『やかまし村の子どもたち』の、カブラ抜きをした後、バケツにジュースをいれて、みんな思い思いにストローでチュウチュウと吸っている場面が、皆さんの目に浮かんでくるでしょう。リンドグレーンたちも、両親の手伝いをしましたが、そうした仕事さえも遊びにして楽しくしてしまう才能を持った子どもたちでした。

また、子ども時代の中で、忘れてならないものに、「豊かな自然」があります。

アストリッドきょうだいにとって、自然はとても大切なもので、石の一つ一つ、木の一本一本を生き物のように思っていました。アストリッドは、目を閉じると、晴れた暖かい日の針葉樹の落ち葉におおわれた森の小道や、森の空き地や、木立を思い浮かべることができます。(『遊んで、遊んで、遊びました』pp.65-6)

リンドグレーンの80歳のお祝に刊行された『Mitt Smoland(私のスモーランド)』(*1)というスモーランドの写真がいっぱい載っている素晴らしい本がありますが、この中でもリンドグレーンは次のように言っています。

子ども時代のことで、どんなことを覚えていますかと聞かれたら、最初に思い出すのは、人間のことではなくて、自然のことだと答えるでしょう。おとなには不可能なほど、わたしたちの日々は自然に包まれ、自然にあふれていました。

きょうだいにとって、「自然」は身のまわりに当たり前のようにあるもの、そして、なくてはならないものでした。

「自然」と同じように、「本」も子ども時代を語る上で欠かす事のできないものでした。彼女たちはあらゆる本をむさぼり読んだということです。家にはほとんど本がありませんでしたが、学校の図書室の本を手当たり次第に読みました。『赤毛のアン』、『少女ケティ』、『小公女』、『若草物語』、『ロビンソン・クルーソー』、『トム・ソーヤの冒険』、『モンテ・クリスト伯』、『アンクルトムの丸木小屋』、『ジャングルブック』などです。
そして、本を読むとすぐ、「ごっこ遊び」をしました。たとえば『赤毛のアン』を読むとすぐ、赤毛のアンごっこをして遊んだということです。

クリスティンの台所

さて、ここで「クリスティンの台所」について、ひとこと触れることにします。
リンドグレーンは貧しい農家の居心地のよい台所を書こうとすると、無意識のうちに、「クリスティンの台所」の様子を書いてしまうといっています。青いペンキ塗りの台所ソファー、黒いまきストーブ、窓辺のゼラニュームなどがある、質素だけれど、気持ちのよい台所です。『はるかな国の兄弟』で、クッキーが寝ていた台所が、その典型的なものです。この「クリスティンの台所」の中で、リンドグレーンは人生最初のカルチャーショックを受けます。
クリスティン夫婦はネース農場で働いていましたが、二人にはリンドグレーンより年上のエディットという娘がありました。リンドグレーンが5歳のある日、エディットに誘われて、クリスティンの家へ出かけていきます。すると、エディットが『巨人バムバムと妖精のヴィリブンダ』という本を読んでくれました。これはリンドグレーンにとって衝撃的な出来事で、世の中にこんな楽しいものがあったのかと思ったということです。インタビューの行われた85歳のときにも、そのときの様子を全部覚えているといっています。それからというもの「クリスティンの台所」は特別な場所になり、居心地のよいこぢんまりとした台所というと、無意識のうちにこの台所のことを書いているということです。のちにお話の作り手になるリンドグレーンの原点がここにあるのですね。

こうした環境の中で、リンドグレーンは、遊んで、遊んで、遊ぶ幸せな子ども時代を過ごしました。その子ども時代がやがて『やかまし村』を始めとするたくさんの作品を生み出すことになります。

「子ども時代」を書いた作品

故郷スモーランドを書いた作品には『やかまし村』のシリーズ3冊、『エーミール』の本3冊があります。

『やかまし村』の3冊の本に書かれていることは、ほとんど全部、リンドグレーンが子ども時代に経験したことだといいます。「やかまし村」の子どもたちの日々がいきいきと書かれているこの本を読むとだれもがホッとした気持になるようです。

『エーミール』の本もスモーランドの子どもたちを書いた作品ですが、リンドグレーンの父親の時代のスモーランドです。
リンドグレーンの父親はスヴェントルプの農家の出身で、子どもたちに折に触れて自分の子ども時代のことや両親や親戚のこと、人から聞いた話、昔話や伝説などを語って聞かせました。それが、『エーミール』に生かされています。
元気一杯のいたずらっ子、エーミールの行くところに必ず事件が起きます。スープ鉢に頭を突っ込んで抜けなくなったり、妹のイーダを国旗掲揚の柱につり上げたりして大騒ぎになります。その度にパパはエーミールを懲らしめるために木工小屋に閉じ込めます。エーミールは最初は泣きますが、すぐ泣き止んで、木の人形をこしらえながら、けっこう楽しく過ごします。このようにして出来た人形は300以上になったということです。

私は、このシーンに出合う度に、『エーミール』がスウェーデンの物語であることを実感させられます。スウェーデンの人たちは他人と一緒に過ごすことが大好きですが、それと同じくらい、独りでいることが大好きです。日本で「愛と孤独」についてどう思うか尋ねると、多くの人は、相反するものであると答えます。けれども、スウェーデン人は、この二つが両立するもので、どちらも大切なものと答えます。日本とスウェーデンは似ているところも多いのですが、このあたりは違いますね。
そういう目で見ると、リンドグレーンの作品のなかで、ミオもベルティルもヨーラン(『親指こぞうニルス・カールソン』)も、それからピッピでさえもみんなひとりぼっちです。でもミオにはお父さんの王様がいるし、ベルティルにはニルス・カールソン、ヨーランにはリリョンクヴァストさん、ピッピにはトミーとアニカという気持ちを理解して、よりどころとなっている人が傍にいます。そういう人たちがいることも、大切なことだと思います。

ところで、エーミールは、あまりのいたずらぶりに、村の人から「アメリカへやったらどうか」といわれます。当時、生活が成り立たなくなったスウェーデンの人々、特に貧しかったスモーランドの人々が、新天地を求めてアメリカヘ渡って行ったのです。その様子はスウェーデンの作家・ヴィルヘルム・ムーベリーの小説『移民』に詳しく書かれています。村の人たちから、アメリカへやってしまえといわれたお母さんは大憤慨して、「エーミールはかわいい子なんですよ。いまのままの子を私は愛しているんです」とはっきり言う場面があります。
この『エーミール』の本を、スウェーデンの人々は、いまでもとても大切にしていて、大好きな本だと言っています。リンドグレーン自身もこの本を楽しんで書いた、最後の章を書き終えたとき、エーミールにもう会えないと思うと悲しくなって泣いたといっています。

『エーミール』の本は、残念なことに岩波書店刊の3冊を除いて、絶版になっています。講談社刊の再版が待たれます。

『長くつ下のピッピ』

『長くつ下のピッピ』はリンドグレーンの作品の中で最もよく知られていて、事実上の処女作です。三つの偶然の出来事が重なって生まれました。
第一の出来事は、娘のカーリン7歳のとき風邪をこじらせて学校を休んだということです。たいくつしたカーリンはリンドグレーンに、『長くつ下のピッピ』のお話をして、とねだります。そこで、リンドグレーンは「長くつ下のピッピ」という変わった名前の女の子の変わったお話をはじめたのです。カーリンはリンドグレーンのお話が気に入って、もっともっととねだりました。そして、学校へ行くようになると、友だちを呼んできて一緒に聞きました。
第二の出来事はその3年後、リンドグレーンが春の大雪の日、滑って足をくじいて、安静にしていなければならなくなったことです。リンドグレーンは、思いがけなく時間ができたので、カーリンも友だちも喜んできいた『長くつ下のピッピ』のお話をカーリンのバースデープレゼントにしようと思って書き上げました。
第三番目の出来事は、1945年に行われた「ラベン・オク・ショーグレン社」主催のコンクールに『長くつ下のピッピ』で応募して、見事一等賞に入賞したことです。このような三つの出来事が重なって、『長くつ下のピッピ』は世に出ることになりました。

リンドグレーン関連図書の展示の写真

リンドグレーン関連図書の展示

ピッピは、ちょっと見ただけでもおかしな子です。でも、やることはもっと変わっていて、世界一の力持ちで、馬も泥棒もお巡りさんも、ひょいと持ち上げてしまいます。考えていることがひとりよがりで、何でも自分の思い通りにやってしまいます。
こんな物語が出版されたのですから、すぐにスウェーデン社会に大センセーションを巻き起こしました。当時、子どもの本は、子どもを常識的なきちんとした大人にしつけるためのものと考えられていたからです。
けれども、子どもたちはこの本を大喜びで迎えました。ピッピは子どもたちがやりたいと思っていることを、全部代わりにやってくれました。子どもは、自分もピッピのようにやれたらどんなにいいだろうと憧れて、この本を読んだのだと思います。

リンドグレーンは、10代の半ばから20代のはじめにかけて、怒涛のような月日を過ごしました。自分をもてあまし、評判のよくないグループに入って、親の言うことなど無視し、おとなが眉をひそめさせるようなことを、次から次へとしました。そして、18歳で妊娠をして、19歳のときデンマークで出産し、生まれたラッセを里親に育ててもらうという大変つらい経験をしました。
23歳のとき、リンドグレーン氏と出会って結婚し、ラッセを引取り、3年後には娘のカーリンをもうけ、やっと幸せな生活を取り戻すことができました。『ピッピ』はリンドグレーンがそういう経験をした後、幸せな家庭を築き、子どもたちに話して聞かせる中で生まれた作品なのです。このことをおさえておくと、『ピッピ』の少し違った読み方ができるかも知れません。
私もこれまで、『ピッピ』を元気いっぱいの楽しい物語だと思っていましたが、最近はこの本を読むと、ピッピは寂しかったんだなあと感じることがよくあります。

ヴァーサ公園周辺が舞台の作品

リンドグレーンは、次に、自分が住むヴァーサ公園周辺を舞台にした物語を書くようになります。『親指こぞうニルス・カールソン』、『ミオよ わたしのミオ』、『やねのうえのカールソン』などです。主人公たちはみな、この周辺に住んでいます。そして多くの場合、主人公たちは胸に悲しみを抱いて、現実の世界から空想の世界へと飛んで行きます。
『親指こぞうニルス・カールソン』のベルティルは、両親が働いてます。大好きだったお姉さんも少し前に死んでしまいました。遊ぶ友だちもなく、ひとりぼっちで家にいると、親指ほどの大きさしかないカールソンがあらわれて、いっしょに楽しく遊ぶようになります。
『うすあかりの国』のヨーランは足が悪くて寝たきりで、ママが悲しそうに「ヨーランはもう歩けるようにはならない」といっているのを聞いてしまいます。ある夕方、リリョンクヴァストさんが入ってきて、ヨーランを背中に乗せて、ストックホルムの上空を飛んで、外へ連れていってくれます。

ユンググレーンは、次のように言っています。

アストリッドは、わたしたちが普段見慣れているありふれたものの後ろには、いつも、もう一つの世界-かすかなやさしい光に包まれた神秘的な世界-があるのだと言おうとしているのではないでしょうか。けれども、それは悲しみを味わってはじめて見つけることができるのです。(『遊んで、遊んで、遊びました』p.98)

私たちは夏にスウェーデンへ旅行することが多いので、いつまでも日の暮れない明るい夏を見て帰って来ます。ですから、冬の暗いスウェーデンがどんなものか、なかなか実感できません。スウェーデンで二人の子どもを育てている私の友人は、「冬の間、子どもたちは、星を見ながら登校し、星を見ながら下校します。凍りついた道を自転車に乗って学校へ通います。風邪をお互いに移しっこするらしく、治ったと思うとまたすぐひく。冬は勉強も忙しくて、とても大変そうです。」と言っています。リンドグレーンの作品を理解するためには、冬の暗いスウェーデンのことも知る必要があるのではないでしょうか。リンドグレーンの寂しさを抱えた子どもたちをみると、いつもそんな気がしています。

ファンタジー

リンドグレーンは、つぎにもっと本格的なファンタジーを書くようになります。『はるかな国の兄弟』『ミオよ わたしのミオ』などです。子どもの力ではどうしようもない過酷な現実が、物語の主人公たちをファンタジーの世界へと誘う原動力になっています。
『はるかな国の兄弟』の主人公は、ヨナタン・レヨンイェッタとクッキーと呼ばれているカール・レヨンイェッタの兄弟です。弟のカールは病気が重く、もうすぐ死ぬことを覚悟しています。兄のヨナタンはそんな弟にやさしくて、「死は怖いものではないよ、君自身がナンギヤラに飛んでいけるのだよ。きっと君はそこが好きになるよ」といって励ましています。

この本は出版後、さまざまな論議を呼び起こしました。子どもの死というものをこんなふうに扱っていいのだろうかという問題が、真剣に出されました。それに対してリンドグレーンは、「死ぬのを怖がっている子どもの慰めになればいいと思った」と言っています。実際、大勢の子どもから、「もう死ぬのはちっとも怖くありません」という手紙をもらったといっています。

自立した女性を描く

『山賊のむすめローニャ』は、雷で裂けて二つになった要塞が舞台です。それぞれの側に山賊の一味が住んでいて、敵対関係にあります。一方の一族にローニャという女の子が、もう一方にはビルクという男の子がいます。二人は、最初は反発しあいますが、やがて互いに惹かれあうようになります。そして最後には、一緒に生きていく決意をします。
ローニャとビルクの愛情が感動的ですが、両親、特に父親からの親離れの問題と、ローニャの一人の女性としての自立が書かれています。
リンドグレーンは女性の自立について、作品の中に一貫して書いてきています。1944年発行の『ブリットマリはただいま幸せ』の中でもすでに、ブリットマリは、夫とか親の世話にならないで、自分一人で生きていけるようになりたいと書いています。『長くつ下のピッピ』も自立した女の子だと思います。それが、このローニャでは、みんなが納得できるような形で自立のことが書かれています。ローニャとビルクは、一緒に鉱山師としていきていく決意をしますが、ローニャにはビルクに寄りかかっていこうというところが全くありません。これが、リンドグレーンの姿勢だと私は考えました。

リンドグレーンの作品の魅力

リンドグレーンには70ぐらいの作品がありますが、どれひとつとして同じものがありません。そのことにとても感心させられます。『ピッピ』や『カールソン』のようなゴーイング・マイ・ウェイの元気な物語があるかと思えば、『やかまし村』や『エーミール』のような子ども時代に題材を得た物語もあります。『ミオ』や『はるかな国の兄弟』のようなファンタジー、『カッレ君』のような探偵ものというように、一つ一つがみんな独自性をもっています。そして、リアリズムの作品、ファンタジーの作品とはっきり分けてしまうこともできません。
長年彼女の秘書を務めたマリアンヌ・エリックソンさんは「アストリッドは物語を作り出すというよりは、自分自身のなかに、物語を持っているような気がする」といっています。

リンドグレーンの作品の成功の秘密

『ピッピの生みの親 アストリッド・リンドグレーン』の中で、著者の三瓶恵子さんが、リンドグレーンの成功の秘密を三つをあげています。

  1. 何度も口に出して練り直された話し言葉で書かれていること。
  2. センスのよい造語能力があり、響きのよい独特の言いまわしがつかわれている。
  3. 優れたバランス感覚を持っていること。常識を踏み越えたかと思うとさっともどる。良識にしたがうかと思うとすっとそれをはぐらかす。ちょっとはずして、読者をさらに納得させる技術をもっている。

これはピッピを見ればよくわかります。あれだけめちゃくちゃなことをやっていても、最後には何となくピッピのやっていることが納得できるというのは、バランス感覚を働かせて最後にちょっとずつサービスしているところがあって、これがみんなに受入れられる原因なのじゃないかなと思います。

リンドグレーンの人気

2002年1月28日にリンドグレーンは94歳の生涯を閉じました。翌日のマスコミは彼女の逝去をトップで伝えました。一児童文学者の域をはるかに超えた、スウェーデン社会の重要な人物であったことを、国民一人ひとりが再認識させられました。私も、2002年4月から一年間、南部のルンド市に滞在し、その後も何度か訪れていますが、その度にリンドグレーンの人気を思い知らされています。
本屋には特別のコーナーがあります。スウェーデンの人は『ピッピ』はもちろん、『エーミール』や『親指こぞうニルス・カールソン』なども好きです。図書館でも貸出件数ナンバー1を維持しています。閲覧室でも、ソファーに掛けながら、お父さん、お母さんが子どもに読み聞かせているのをよく見かけます。
今年の夏は、列車の中で、おばあさんが女のお孫さんたちに『わたしたちの島で』を読み聞かせているのに出会いました。読んでいるおばあさんもうっとりとした顔をしていたのが印象的でした。

本の他にも、リンドグレーンの朗読によるCDやテープ、映画のビデオ、DVDなどがたくさん売られています。リンドグレーンは、長い間ラジオで朗読の時間を担当していて、穏やかで心地よい声の持ち主です。
多くの作品が映画化や劇化されています。『私たちの島で』はテレビ映画が先で、後に本になったということです。映画や劇化に本人も積極的で、思いがけない姿で映画に登場することありました。『エーミール』では、市場のシーンでスカーフを被ったおばさんとして登場しているそうです。本よりも先に映画でリンドグレーンに出会う子もいるのではないかと思います。映画の主題歌もよく歌われています。『エーミールと大どろぼう』でイーダが歌う「イーダの夏の歌」は、どの学校でも5月の卒業式に必ず歌われるのだそうです。

また社会のオピニオンリーダーとしても、注目されていました。税金や動物愛護問題、原子力発電所問題などを気の利いた物語に仕立てて発言するので、国民は皆、リンドグレーンに代弁してもらっているような気になったということです。私の知り合いで70代後半のおじさんは、作品をそれほど熱心に読んでいませんが、「イーダの夏の歌」は最後まで歌えるし、税金のことで異議を申し立てた『ボンペリッサ物語』もよく知っていました。彼女の国民的な人気は、作品の魅力を軸にした重層的なものだと感じます。

私にとってのリンドグレーン

私が初めてリンドグレーンと出会ったのは、岩波少年少女文学全集の『さすらいの孤児ラスムス 名探偵カッレくん』でした。今では考えられませんが、2段組の本です。当時中学1年生の一番下の妹が、この本にたいへん影響されて、友だちと一緒に白バラ軍を結成して、物置小屋で寝泊りする計画を立てたりしました。私は当時学生でしたが、妹をこんなにも夢中にさせる本に興味を持ち、読みました。1960年といえば、6月に日米安全保障条約が締結され、安保闘争で日本中が揺れた年です。そんな時にこの本を読んで、なんともいえない開放感を味わいました。
私は結婚して三人の子を持ち、子どもと一緒にリンドグレーンを楽しみました。50歳を過ぎたとき、もう一つ外国語を勉強してみようと思いました。そんな時にリンドグレーンが原書で読めたらどんなに楽しいだろうと思い、スウェーデン語を勉強しました。考えてみると節目節目でリンドグレーンの影響を受けてきたことがわかり、とても不思議な感じがしています。

注記

*1 原書の綴りは、「Smoland」の「o」の上に、小さい丸が付いた文字ですが、ホームページ上では表示できません。ご了承ください。本文へ

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