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蒲田に梅園ができたのは文政年間(1818~1830)のことで、薬屋を営んでいた山本忠左衛門という商人が、敷地内に梅や多くの木々を植え、茶屋を開いたことが始まりだといわれています。
現在の池上通り、大田区山王あたりの坂道を八景坂と呼んでいました。ここから「笠島夜雨、鮫洲晴嵐、大森暮雪、羽田帰帆、六郷夕照、大井落雁、袖浦秋月、池上晩鐘」という8つの美しい風景が見えることから、八景坂と呼ばれるようになったといわれています。
千束池(洗足池)という名前の由来は、日蓮上人が身延山久遠寺から茨城へ療養に向かう途中、旅の疲れを癒す為に足を洗ったという伝説によるものです。その時、日蓮上人が脱いだ袈裟を掛けたという松が袈裟懸けの松です。
土器投げ(かわらけなげ)とは、厄除けなどを祈願して、高い場所から素焼きや日干しの土器を投げ、それが風に舞う様を見て楽しむ遊びのことです。江戸で最も行われていたのが飛鳥山でした。
関東稲荷総社の格式を持ち、江戸時代より庶民に親しまれていたのが王子稲荷です。平安時代に源頼義が奥州平定に赴いた際に信仰したそうで、この頃から東国の稲荷社を束ねる神社であったと伝えられています。
王子を流れる滝野川は石神井川の別名です。このあたりは近くに飛鳥山があったため急流となっており、不動の滝や弁天の滝といった滝も見られる自然豊かな行楽地として多くの人々が訪れました。
王子稲荷には、稲荷の使いである狐が大晦日に関東中から集まり、近くの榎の下で身なりを整え、初詣をするという言い伝えが残っています。これが「衣装榎木」の由来です。この時、狐たちが灯す狐火によって、地元の人々は翌年の作物の実り具合を占ったそうです。
江戸庶民の磯遊びの一つである潮干狩りは3月の年中行事として、品川や芝浦、深川洲崎などで見ることができました。なかでも洲崎は潮干狩りの名所として、多くの人々で賑わっていました。
寛永年間(1624~1643)に京都の三十三間堂を模して浅草に建てられたのが三十三間堂のはじまりです。深川に移されたのは元禄14年(1701)のことであり、本尊は千手観音であったといわれています。この地においても、弓術稽古のために通し矢が行われていました。
江戸近郊の梅の名所として最も有名だったのが亀戸にあった梅屋敷です。竜がとぐろを巻いて臥すかのような形の「臥竜梅(がりゅうばい)」で有名でした。園内では臥竜梅の梅干を販売していたそうです。