引札〜印刷広告の元祖
引札(ひきふだ)とは
「引札」と聞いてピンとくる方は少ないかもしれませんが、広告チラシといえばイメージしやすいかもしれません。
宣伝のために顧客や市中に配る印刷物や書き付けのことを引札と呼ぶようになったのは、文政期以降のことであるといわれています。それまでは、「札廻し」「安売り目録書」「口上書(こうじょうがき)」などと記した記録が残っていますが、一定の呼び名はなかったようです。「引札」の語源について、"客を引くための札"だからと考えがちですが、実は「引く」という言葉には古来「配る」という意味もあったことから、"配る札"というのが本来の意味だと考えられています。
引札の誕生は、「広告」という言葉がまだなかった江戸時代前期、天和3年(1683)までさかのぼります。呉服屋の三井越後屋(三越の前身)が日本橋駿河町に移転・新装開業の折に、「現金安売り掛値なし」という当時としては画期的な商法を謳い文句にした一枚物の摺物(すりもの)を配り大変な反響を呼びました。
時代が下り江戸後期の文化・文政期に入ると、庶民の購買力の高まりに伴い、料亭・茶漬飯屋・蕎麦屋・鰻の蒲焼屋・お汁粉屋などの飲食店はもとより、着物以外にも櫛や笄(こうがい)、簪(かんざし)類などの装飾品、口紅、髪油などの化粧品や薬、煙管とそれにまつわる小物等々、ありとあらゆる商品の引札が摺られました。
ここでは貼込帖(はりこみちょう)に残された引札のほんの一部をご紹介します。
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コピーライターでもあった人気戯作者たち
山東京伝(さんとうきょうでん)(1761-1816)、曲亭馬琴(きょくていばきん)(1767-1848)、式亭三馬(しきていさんば)(1776-1822)...売れっ子戯作者たちの多くが引札の広告文(コピー)を執筆したのには理由があります。
第一に、文筆業の傍ら、薬や小間物などの店舗経営もしていた(というより、収入が不安定な文筆業よりむしろこちらの方が本業なのですが)場合、自店の宣伝に自ら筆を執ったこと、次に他店からも、戯作者としての知名度や面白く読ませる文才を期待されて、執筆依頼が沢山きたことなどが挙げられます。また、絵師や版元などの仲間が周囲にいる戯作者に広告文を頼めば、刷り上がりまで一貫してできて好都合という事情もあったようです。
エレキテルの発明や土用の丑の日に鰻を食すアイデアで有名な鬼才・平賀源内(ひらがげんない)(生年不詳-1779)が、明和6年(1769)に歯磨き粉「嗽石香(そうせきこう)」のために書いた機知に富んだコピーは江戸っ子の評判となり、その後の戯作者たちによる戯文引札流行のきっかけをつくりました。
ここでは、『鶏肋雜箋(けいろくざっせん)』と名付けられた貼込帖(はりこみちょう)に残された、戯作者が広告文をものした引札をいくつかご紹介しましょう。
〔料亭「高輪亭」の引札〕
りょうていたかなわていのひきふだ
1枚 加賀文庫 加155-29
赤穂義士の墓所・泉岳寺真向かいにあった料亭「高輪亭」の建て増し新装開店を知らせる引札です。
戯作者・仮名垣魯文(かながきろぶん)(1829-1894)による、四十七士にちなんだ掛詞を駆使した宣伝文に朱色の盃(さかずき)のイラストが添えられています。盃の高台内に「良雄」と大石内蔵助の諱(いみな)が記されているように、これは内蔵助自身がデザインしたといわれる"掟(おきて)の盃"「遊春杯(ゆうしゅんはい)」を描いたもので、盃の表の高札には、"喧嘩口論してはならない"、"(注がれた盃を)下に置いてはならない"、"無理に酒を勧めてはならない、ただし相手による"など、酒席で守るべき心がけ五箇条が記されています。
明治初期の文壇の大御所的存在だった魯文がコピーを書いた引札は五千とも一万ともいわれ、現在も夥(おびただ)しい数が残っていますが、実際には自身の門下の者たちに書かせたものも多いといわれています。(18.5×26cm)
〔「江戸の水」の配り団扇〕
えどのみずのくばりうちわ
1枚 加賀文庫 加155-29
今でも、夏場のお祭りやイベントなどで宣伝を兼ねた団扇(うちわ)が配られることがありますが、こちらは式亭三馬(しきていさんば)(1776-1822)が経営する薬店「式亭正舗(せいほ)」が顧客に配った団扇(配り団扇)の地紙を剥がして貼り込んだものです。店の看板商品で、"白粉(おしろい)のよくのる薬"という触れ込みの化粧水「江戸の水」を宣伝しています。
「京紅粉(べに)の花の色は 江戸風(ふう)に移りにけりなと 小野の何がしもよむべく 吾嬬下(あずまくだり)の花の露は 江戸の水にきつつ馴(なれ)にしと 在原の何がしもよむなるべし...」と、三馬自ら小野小町の有名な和歌や「伊勢物語」などの古典をパロディー化したコピーを書いています。屋根看板や人物が手にした団扇に書かれているのは、三馬の「馬」の文字を図案化したもので、「式亭正舗」の今でいうところのブランドマークにあたります。(23.5×26.5cm)
文人墨客が出入りした伝説の料亭の引札
日本橋浮世小路の「百川(ももかわ)(百川楼とも)」は、常に料理番付の上位に載り、常連客として大田南畝(おおたなんぽ)(1749-1823)、山東京伝(さんとうきょうでん)(1761-1816)、亀田鵬斎(かめだぼうさい)(1752-1826)、谷文晁(たにぶんちょう)(1763-1840)といった名だたる文人墨客が名を連ねた一流料亭でした。
幕末にペリー率いる黒船艦隊一行の饗応の宴という一大プロジェクトの料理一切を任され、見事に成し遂げましたが、明治維新後になぜか忽然と姿を消したことから伝説の料亭と呼ばれています。
こんだて くらべ あんせい ろく ひつじ はる しんぱん
安政 6年 1枚 東京誌料 0797-22
これは、当時評判の高かった料亭の番付です。堂々、西の大関として「浮世小路 百川」の名がみえます。(50.5×37.0cm)
ももかわはんえいのず
歌川豊国(3世)図 山本屋平吉版 3枚続 東京誌料 0797-C45
お盆に乗せた料理を運ぶ仲居、店に呼ばれてきた夏衣装の芸者たちが行き交う、二階の階段脇の様子が描かれています。
いかにも繁盛している往時の店内の様子が偲ばれます。(35.3×74.4cm)
〔料亭「百川」の引札〕
りょうていももかわのひきふだ
1枚 加賀文庫 加155-29
百川は、創業当時は卓袱(しっぽく)料理屋であったと伝えられています。「卓袱」とはテーブルクロス、またはテーブルそのもののことを指しますが、「卓袱料理」といえば、江戸中期に長崎経由で中国から伝わった、テーブルを囲んで大皿に盛りつけた料理を取り分けて食すスタイルの料理のことです(もっとも、料理の食材や調理法などは日本流にアレンジされました)。
挿絵には、卓袱の上に並べられた器物の様子が細かく描かれています。大皿のほかにワイングラスのような形の酒器や花瓶、箸立てには箸のほか汁物に使う匙も見えます。
店主による宣伝文句には、"祖々父の代に卓袱料理を売りに始めた店であったが、時代の流れで即席や会席料理を出す料亭に変わってしまった。このたび、とある御仁の勧めにより卓袱料理を再興することにし、店のしつらいも風雅に改めたのでぜひご来店を"といった内容が記されています。「寅五月」とあるのは、慶応2年と推定されます。(19×25.7cm)
『鶏肋雜箋(けいろくざっせん)』とは
証券業の世界で活躍すると共に、古典籍や美術品の収集、茶道や庭園など、多方面に関心を寄せた加賀豊三郎(かがとよさぶろう)(1872-1944)氏が蒐集した一枚摺(ずり)を中心とした貼込帖(はりこみちょう)で、全30帖別集2帖からなります。鶏肋とは鶏のあばら骨のことで、「大した役に立たないが捨てるには惜しいもの」という意味です。この中には、色とりどりのデザインが目を引く、江戸から明治にかけての引札や大小暦が貼り込まれた帖も含まれています。
けいろくざっせん
30巻 別集 昭和装本篇 32冊 加賀文庫 加155
引札は主に第29冊と第30冊に貼り込まれています。
このような大型のけんどん箱に収納されています。
貼れるだけ貼ってみました〜薬と化粧品の引札だけで埋め尽くされた貼込帖(はりこみちょう)
インターネットやテレビ広告全体に占める、薬品やサプリメント、化粧品の割合が高いのは、今に始まった話ではありません。江戸版の買い物ガイドブックといえる『江戸買物独案内(えどかいものひとりあんない)』(東883-1)には、飲食業・製造業・サービス業など多種多様な業種がいろは順に掲載されていますが、薬屋の広告は店舗数・各店の情報量ともに他業種を圧倒しています。
そもそも薬は広告しないと売れない商品であり、効能や取り扱い上の注意を詳しく知らせる必要があるので、おのずと情報量も多くなる性質を持つ商品だからといえます。一説によると、薬の引札は、文化・文政期に食べ物屋などの引札が盛んになるよりずっと早い時期から摺(す)られていたのではないかといわれています。
江戸時代賣薬広告引札貼込帖
えどじだいばいやくこうこくひきふだはりこみじょう
1帖 特別買上文庫 特5119
蛇腹に折り畳まれた帖の裏表にびっしりと貼り込まれた薬や化粧品の引札の数々。その種類と情報量の多さに圧倒されます。
チラシタイプの引札以外にも、商品の効能や姉妹品の広告が摺られた紙袋や内包みも貼り込まれています。(31.5×1560cm)
〔「美艶仙女香」〕
びえんせんじょこう
1枚 特別買上文庫 特5119
「美艶仙女香(びえんせんじょこう)」とは、文政期初頭、南伝馬町の坂本氏が売り出した白粉(おしろい)で、当時人気の歌舞伎の名女形・三代目瀬川菊之丞(せがわきくのじょう)(1751-1810)の俳名「仙女」にちなんだものです。
「何にでもよく面(つら)を出す仙女香」と川柳で茶化されるほど、役者絵や美人絵、草双紙などで大々的に広告が打たれました。
広告料をもらっていたわけでもないのに、版元や戯作者たちがこれから開版しようとするものにこの化粧品の名前をやたらと入れたのには理由がありました。「仙女香」製造販売元の坂本氏は、本名・和田源七といい、町名主(まちなぬし=町方行政に関わる種々の職務を担った役職)として文化4年(1807)から天保13年(1842)という長期にわたり出版物の改掛(あらためがかり)、つまりは検閲を務めた人物でした。版元や戯作者サイドは、自らすすんで「仙女香」の宣伝に協力することで、和田源七から出版許可を取り付けようとしたのではないかと考えられています。(22×30cm)
みたて おおいそ の とら せがわ きくのじょう
歌川国貞(1世) 西村屋与八 1枚 東京誌料 N041-43
五代目瀬川菊之丞が、「美艶仙女香」の包みを手に微笑んでいます。菊之丞はその美貌と芸の確かさでたいへんな人気をさらっただけに、当時の女性の服飾・化粧などの流行にも多大な影響力をもっていました。ここまでくると、役者絵の形をとった広告そのものといえるでしょう。(37.7×25cm)
ちょうふ たまがわ の けい
歌川国芳 山口屋藤兵衛 天保年間 3枚続 東京誌料 0543-C1
当代の人気役者たちが、浴衣姿で川遊びをしている絵の中にも「仙女香」が潜んでいます。画面左の川床の柱に掲げられた木札は、まるで実景の中にある看板を描いたかのように全体に馴染んでいます。(36.6×76.8cm)
とうかいどう ごじゅうさんつぎ の うち せき ほんじん はやだち
歌川広重(1世) 保永堂 竹内孫八 1枚 東京誌料 061-C3-48
有名な歌川広重の風景画「東海道五十三次」シリーズにも「仙女香」はちょくちょく顔を出します。
これは、関の宿場の本陣(大名など貴人の宿泊先)前の情景を描いたものです。画面左端、軒先の陣幕の陰から「○○守(かみ)泊」「□□守休」と、宿泊する大名の名が書かれた関札がちらりとのぞくすぐ隣に、なぜか「仙女香」の札が下がっています。さらに、その隣には「しらが薬 美玄香(びげんこう)」と、これも坂本氏が売り出している白髪染めの札までちゃっかりぶら下がっています。
もちろん、これも現実にはあり得ない光景を描いた宣伝の一種です。(23.9×36.1cm)
〔「ウルユス」〕
1枚 特別買上文庫 特5119
まるで舶来品のような趣ですが、大阪に本店を構える健寿堂が文化8年(1811)に発売した痰・留飲(=胸やけ)・癪気(=痙攣痛)の治療薬で、日本初のカタカナ表記の売薬といわれています。
「ウルユス」の語源については諸説ありますが、一説には、漢方の四大療法である「汗吐下和(=体表・口・肛門から毒を出すことと体内で毒を和すること)」のうち、「汗吐下」の働きをする薬物を「空剤」と呼び、「空」の漢字を分解した「ウ+ル+ユ」に「ス」を添えて「空にする」という意味を狙った造語ではないかと考えられています。
オランダ語で「痰の薬」を表すアルファベット(ただしスペルと語順に誤りあり)を書き添え、薬の由来に蘭学医・杉田玄白による翻訳書で知られたドイツの解剖学者ヘーストルを引き合いに出したりと、あたかも蘭方の最新薬であるかのように思わせるイメージ戦略が功を奏して大いに売れたようです。(31×47cm)
〔「薄化粧」〕
うすげしょう
1枚 特別買上文庫 特5119
団扇の引札でご紹介した式亭三馬の店には、「江戸の水」の他にも化粧品や歯磨き粉などの売れ筋商品がありました。
これは、ニキビやシミ・そばかすに効くというその名も「薄化粧」という商品で、今でいうところの美白洗顔パウダーといったところでしょうか。
"今どきは、薄化粧が色っぽくてよい、厚化粧は敬遠される...ことに四十歳以上の方がけばけばしいのはどうかと思うので、ぜひこれを..."、といった調子で商品を売り込んでいます。(31×30cm)
主な参考文献
【図書】
タイトル / 編著 / 出版社 / 出版年 等 | 請求記号 資料コード |
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引札絵びら錦絵広告 江戸から明治・大正へ / 増田太次郎著 / 誠文堂新光社 / 1976 | D/6749/121/76 1120741059 |
引札絵ビラ風俗史 / 増田太次郎著 / 青蛙房 / 1981 | 6749/212/81 1120708967 |
えどばたいじんぐ 江戸の広告作法 / 坂口由之著 / 吉田秀雄記念事業財団 / 2020 | T/674.2/5002/2020 7113496919 |
江戸のコピーライター / 谷峯蔵著 / 岩崎美術社 / 1986 | T/0・674/15/ 1124481154 |
【雑誌記事】
論文名 / 著者 / 掲載誌 巻号 / 出版社 / 出版年 / 掲載ページ 等 | 資料コード |
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魯文の報条(六) 髙木元著 / 大妻国文 第53号 / 大妻女子大学国文学会 / 2022.3 / p.129-148 | 寄贈本 |
カタカナで名付けられた最初の売薬「ウルユス」について / 野尻佳与子著 / 日本醫史學雜誌 第61巻第1号 / 日本医史学会 / 2015.3 / p.90 | 7105540709 |