屋代弘賢の硯
硯(すずり)は、形、石に彫られた字や絵柄を、拓本に取ったり、模写などをして、文人に愛玩されてきました。近世の国学者にして蔵書家として知られた屋代弘賢(やしろひろかた)(1758-1841)(号:輪池〈りんち〉)の手になる硯の貼込帖『輪池堂研譜』を紹介しましょう。
輪池堂研譜
りんちどう けんぷ
屋代弘賢(やしろ ひろかた)写 1帖 加賀文庫5205
「不忍文庫」 蔵書印
しのばずぶんこ ぞうしょいん
古来中国では文人の書斎を文房といい、筆、墨、硯(すずり)、紙の4種を「文房四宝(ぶんぼうしほう)」と呼んで尊び、中でも硯は愛玩の対象とされて、コレクションを「硯譜(けんぷ)」という図譜にして残しました。日本では『和漢硯譜』(寛政7年)(1795)(請求記号:加5206)、『集古十種(しゅうこじっしゅ)』「文房」(寛政12年)(1800)(※1)などを嚆矢とし、『輪池堂研譜(りんちどうけんぷ)』もそのひとつです。「研」は硯と同じ意味で使われます。収載の硯は約180面におよび、寺院に古く伝わる名硯から、名もなき硯まで実に様々なものが見られます。
弘賢は神田明神下の幕臣の家に生まれ、幕府の書役、右筆(ゆうひつ)となり、師の塙保己一(はなわほきいち)(1746-1821)を助け、『群書類従(ぐんしょるいじゅう)』(安永8-文政2年)(1779-1819)の編纂に携わったほか、百科事典『古今要覧稿(ここんようらんこう)』(文政4-天保13年)(1821-1842)(請求記号:東 0012-4)を編集したことで知られます。その蔵書「不忍文庫(しのばずぶんこ)」は質量ともに個人の蔵書としては近世屈指であったといわれています。『輪池堂研譜』にはその捺印が見られます。(49.8×35.3cm)
※1 『集古十種』:松平定信(まつだいらさだのぶ)(1758-1829)が中心となり臣下の学者・画家らによる資料情報の収集によって編纂された、古文化財図録。寛政12年(1800)正月に刊行された。各地に所在する古文化財を、古画、扁額、文房、法帖、碑銘、鐘銘、銅器、兵器、楽器、印章の10種に分かち、所在地、寸法を記して、模写図を添えている。全85冊。
「朝倉義景硯」 本能寺 蔵
あさくらよしかげのすずり ほんのうじ ぞう
京都本能寺に、朝倉義景(1533-1573)の所有と伝わる「朝倉義景硯」です。越前の戦国大名、朝倉義景は詩歌や絵画によく通じた人物で、織田信長(1534-1582)によって滅ぼされました。
縁のやや欠けた部分を正確に描写、写し取ることの困難な硯の高低については「面は縁より少しタカシ...」などと文字で記し、添えられた義景の和歌の短冊を共に写し取っています。この硯については、自作の紀行文『道の幸(さち)』の中に「朝倉義景が硯一面、自詠短冊添えてあり...よき手(=筆跡)にて侍(はべ)り」と、書き残しています。弘賢は持明院流の能書家でもありました。
この「朝倉義景硯」は『集古十種』の「文房(ぶんぼう)」に収載されています。弘賢は漢学者柴野栗山(しばのりつざん)(1736-1807)のもとで寛政4年(1792)『集古十種』編纂を目的とした上方への文化財の事前調査に赴き、前述の紀行文『道の幸』を執筆しました。『輪池堂研譜』には『集古十種』「文房」に収載されている硯が処々見受けられます。(25.8×40.2cm)
上 「澄泥硯」 中村佛菴 蔵
うえ ちょうでいけん なかむら ぶつあん ぞう
左下 「黒石硯」 近藤孟卿 蔵
ひだりした くろいしすずり こんどう たかあきら ぞう
右下 〔河州の陵墓より出土の硯〕
みぎした かしゅう の りょうぼ より しゅつど の すずり
上の「澄泥硯(ちょうでいけん)」(※2)は銘を「文壺」といい、中村佛庵(なかむらぶつあん)(名:連〈蓮〉〈れん〉)(1751-1834)所有の硯です。『集古十種』には、唐代(618-907)の古硯として収載されています。幕臣にして書家であり名うての古物収集考証家、佛庵所有の名硯を弘賢が乞い摺り写したのでしょう。両者共に「耽奇会(たんきかい)」(※3)の同人であり、同会で硯の展観を行った記録もあります。他の耽奇会員では、書家海棠庵(かいどうあん)(関思亮〈せきしりょう〉)(1796-1830)の硯も収載されています。(19.5×28.0cm)
硯の所有者には弘賢の上司や同僚の名も見られます。左下の「黒石硯」には右筆組頭を務め歌人でもある近藤孟卿(こんどうたかあきら)(1746-没年不詳)の名があります。近藤孟卿の所有の硯はいくつか収載されています。このような硯の所蔵者名の書入れなどからは、弘賢を廻る知のネットワークを垣間見ることができます。(21.7×16.9cm)
右下、河州(河内)の陵墓より出土の硯には「石色青、古雅可愛」(硯石の色が青くて趣がある)との書入れが見られます。古の名もなき硯を前にした、弘賢の素直な喜びが伝わってくるようです。(24.0×16.5cm)
※2 澄泥硯:自然石からではなく、川底の砂泥を素材として人工的に作られた硯。泥を澄まして硯形となし、焼いて仕上げる澄泥法によって作られたといい、製法は宋代初期には途絶えたという。
※3 耽奇会:江戸の文人が毎月1回珍しいもの品物を持ち寄り、学問と趣味の談話に耽ろうと組織した会合名。会員は屋代弘賢、中村佛庵のほか随筆家山崎美成(1796-1856)、戯作者曲亭馬琴(1767-1848)、画家谷文晁(1763-1840)など約12名で、文政7年(1824)から翌年まで約20回行われた。『耽奇漫録(たんきまんろく)』(請求記号:東2403-4)が会の記録集である。
「端渓七星硯」
たんけい しちせい けん
宋代(960-1279)より「端渓」(たんけい)の石による硯はとりわけ好まれてきました。『輪池堂研譜』の中でも多く収載されており、中でもこの「端渓七星硯(たんけいしちせいけん)」は最も美しいものでしょう。
下図、硯背(けんぱい)(硯の裏側)に七つの星のごとく散らばっているのは、「眼(がん)」(あるいは「石眼(せきがん)」とも)呼ばれる、自然の作用で稀に端渓石に現れる、斑紋(はんもん)です。古来より眼の現れた端渓石は非常に貴ばれてきました。「眼」は星月に見立てられることがあり、この硯は「七星」に見立てられました。眼を残して、硯背に「眼柱(がんちゅう)」と呼ばれる意匠工芸が施されています。
眼柱の高さ「柱高」が「四分」〜「六分」(=約1.2〜2cm弱)余りと、詳しく丁寧に書き込まれています。(上29.5×32.8cm、下17.5×31.2cm)
主な参考文献
【図書】
タイトル / 編著 / 出版社 / 出版年 等 | 請求記号 資料コード |
---|---|
森銑三著作集 第7巻 人物篇 7 / 森銑三著 / 中央公論社 / 1971 | 0818/192/7 1120866840 |
屋代弘賢略年譜 私家版 / 大塚祐子編 / 大塚祐子 / 2002.8 | 289.1/ヤ2104/601 5005101687 |
日本古典文学大辞典 第6巻 / 日本古典文学大辞典編集委員会編 / 岩波書店 / 1985 | R/J033/21/6 1121478629 |
集古十種 第1 / 松平定信編 / 吉川弘文館 / 2012.12 | 708.7/5537/1 7103275271 |
集古十種 あるく・うつす・あつめる松平定信の古文化財調査 / 福島県立博物館編集 / 福島県立博物館 / 2000.3 | D/708.7/5022/2000 5001133913 |
地名研究資料集 第3巻 / 日本地名学研究所編集 / クレス出版 / 2003.5 | 291.0/5024/3 5006584309 |
雑部(続々群書類従 第16) / 国書刊行会 / 1910 | 0810/Z343/Z1-16 1126016823 |
和漢比較文学叢書 第17巻 / 和漢比較文学会編 / 汲古書院 / 1993.5 | 9019/3001/17 1125764735 |
耽奇漫録 上 国立国会図書館蔵版 / 吉川弘文館 / 1993.12 | J450/5/1-24-1 1127334009 |
耽奇漫録 下 国立国会図書館蔵版 / 吉川弘文館 / 1994.2 | J450/5/1-24-2 1127377249 |
日本考古学・人類学史 上巻 / 清野謙次著 / 岩波書店 /.1984 | 2102/1014/1 1121736527 |
国書人名辞典 第2巻 / 市古 貞次[ほか]編 / 岩波書店 / 1995.5 | R/2813/3098/2 1127688169 |
硯の歴史 / 北畠双耳著 / 秋山書店 / 1980.9 | 7295/15/80 1122507340 |
古名硯鑑賞 / 北畠双耳著 / 秋山書店 / 1980.3 | 7295/13/80 1122507322 |
【雑誌記事】
論文名 / 著者 / 掲載誌 巻号 / 出版社 / 出版年 / 掲載ページ 等 | 資料コード |
---|---|
『佛庵硯譜』について : 幻の鳴門硯 / 横倉佳男著 / 若木書法 12号 / 國學院大學文学部若木書法會 / 2013.2 / p.22-55 | 未所蔵 |