第1章 江戸の大事件
嘉永6年(1853)6月にアメリカ合衆国東インド艦隊司令長官マシュー・ペリーが、軍艦4隻で浦賀沖に来航しました。その15年後の慶応4年(1868)9月には、もう時代は「明治」に突入します。この激動の15年間に将軍のお膝元の江戸では様々な大事件が起こりました。
第1章では、15年間の主な事件として海防のための「御台場造営」、幕府の弱体化が明らかとなった「桜田門外の変」、アメリカ公使館の通訳「ヒュースケン暗殺」、幕府の終焉「江戸城開城」、江戸が戦場となった「上野戦争」、東京への遷都「東京への行幸(ぎょうこう)」の6件を取り上げます。
資料名に下線があるものは「TOKYOアーカイブ」の該当箇所にリンクしています。
1 ペリー来航から御台場造営
アメリカ合衆国の東インド艦隊司令長官ペリーは、大統領の国書の受け取りと開国を求めて、嘉永6 年(1853) 6月に浦賀沖に来航しましたが、幕府から回答の猶予を求められ一時、退去しました。翌嘉永7年(1854)正月、軍艦7隻で再来航したペリーに対し、3月には幕府は日米和親条約を締結します。
江戸湾の防備は文化7年(1810)頃から始められていましたが、嘉永6年(1853)のペリー来航の直後から海防強化のために品川沖に御台場(砲台)が造営されました。伊豆韮山(にらやま)代官江川太郎左衛門(えがわたろうざえもん)の献策で11基造営の予定でしたが、ペリーの再来航には1基も間に合いませんでした。嘉永7年(1854)7月に第一〜三番が竣工しましたが、資金難で計画が変更され、完成したのは先の3基に加えて、第五・六番台場と御殿山下台場(後に第四番台場に改名)の6基のみでした。
御台場造営
あめりかじん くりはま じょうりく の ず
写 1枚 近藤記念海事財団文庫79-1
嘉永6年(1853) 6月、アメリカ合衆国のインド艦隊司令長官マシュー・ペリーは日本の開国を求めて、軍艦4隻を率いて浦賀に来航しました。幕府は浦賀の隣村の久里浜の応接所で国書を受理しました。その時の上陸の様子を描いた図です。
蒸気船からさかんに蒸気が上がる様子や警備にあたる会津藩や忍藩などの旗印が描かれています。図の上部には蒸気船の大きさや警備の概要も記載されています。 (78.5×111.3cm)
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いず さがみ むさし あわ かずさ しもうさ かいりく おかため たいへい かがみ
[安政]刊 1枚 近藤記念海事財団文庫328
ペリーの浦賀来航直後から、幕府は江戸湾防備の強化に着手します。沿岸の防備は文化7年(1810)頃から始められ、弘化4年(1847)には川越・忍・彦根・会津の四藩に相模海岸・房総海岸の警護を行わせる体制ができていましたが、さらに多くの藩を地域ごとに割り当て、警護に当たらせました。「御固(おかため)」は警護のことです。この摺り物は、御固の状況を、上部に各藩の家名・家紋・石高などの一覧、下部に配置図で示したものです。湾防備の情報は、瓦版として江戸市中に伝えられました。(47×86cm)
3 内海御臺場築立御普請御用中日記
ないかい おだいば つきたて ごふしん ごようちゅう にっき
高松彦三郎[著] 嘉永6〜7年 写 3冊 東京誌料6929-2
品川御台場は、伊豆韮山代官江川太郎左衛門(えがわたろうざえもん)立案による品川沖に11基の台場を造営する計画に基づき築造されました。これは、御台場築造現場の責任者の一人となった幕府小人目付高松彦三郎(たかまつひこさぶろう)の日記です。日記には「内海御台場御普請御用掛」が発足する前日の嘉永6年(1853)8月27日から、後れて起工された第五、第六、御殿山下の3基が警備を担当する藩に引き渡される嘉永7年(1854)12月22日までのできごとが記されています。画像は、嘉永7年7月9日、完成した一・二・三番台場を勘定奉行、御目付らが見回ったことが書かれている箇所です。(24×17cm)
えど しながわ おだいば しよう ずめん さんばん おだいばず
写 1枚 東京誌料0511-30-4
三番御台場は、約8,500坪の敷地に、火薬庫や玉置所、番士休息所、防御のための一文字堤や持留土(もちどめつち)が配置されていました。周囲には波の浸食を防ぐとともに敵船の接岸を妨げる波除杭が設けられました。嘉永6年(1853)8月に起工され翌年7月に竣工、大砲の据え付けなどを行った後11月に警備を担当する忍(おし)藩に引き渡されました。(34.5×40cm)
めいしょ えど ひゃっけい たかなわ うしまち
歌川広重(1世)画 魚屋栄吉 安政4年(1857)刊 錦絵 1枚東京誌料0431-C7
「高輪うしまち」は東海道の高輪大木戸(たかなわおおきど)(御府内と御府外の境)の西、泉岳寺近くにありました。寛永11年(1634)の増上寺安国殿建立の際、京都から呼び寄せられた牛車を扱う運搬業者が幕府から土地を賜って定住し、通称「牛町(うしまち)」と呼ばれるようになったのです。この絵はうしまちの海岸沿いから江戸湾を眺めた情景です。遠くに見える岩場は、嘉永6年(1853)のペリー来航後から翌年にかけて江戸の防衛のために築造された「御台場」です。(35.2×23.6cm)
2 桜田門外の変からヒュースケン暗殺
安政7年(1860)3月、江戸城桜田門外で大老井伊直弼(いいなおすけ)が水戸・薩摩の浪士に殺害される「桜田門外の変」が起こりました。勅許を受けずに日米修好通商条約に調印したことや安政の大獄で尊王攘夷派の人々への弾圧を行ったことが原因とされています。白昼に大老が暗殺されたことで、幕府の権威は失墜し、その後の政情に大きな影響を及ぼしました。
また、万延元年(1860)12月には、アメリカ公使タウンゼント・ハリスの通訳ヘンリー・ヒュースケンが攘夷派の浪士たちに暗殺されます。麻布の善福寺(ぜんぷくじ)(アメリカ公使館)への帰宅途中を襲われ、麻布の光林寺(こうりんじ)に葬られました。前年の安政6年(1859)の横浜開港後、攘夷派による外国人暗殺が次々と起き、ハリスもヒュースケンに警告していた中で起きた出来事でした。
桜田門外の変
ぞうほ かいせい こうじまち ながたちょう そとさくらだ えず
景山致恭図 [金鱗堂]尾張屋清七 嘉永3(1850)/万延(1860)改正 1枚 東京誌料0411-30
事件現場周辺図です。正に事件が起きた万延元年(1860)に発行(増補改正)されました。中央上部に横倒しで「櫻田御門」とあります。事件は、門のほぼ向かいの「松平大隈守」とある松平家上屋敷前の路上で起きました。
「井伊掃部頭」とある井伊家上屋敷から駕篭に乗って出発した大老・井伊直弼は、「櫻田御門」(部分拡大図)までのわずか200mの間で、暗殺されたのです。当日は雪が降っており、約120人の護衛たちは雨合羽を着て、刀にも柄袋を付けていたため、たった18人の襲撃に応戦できず、死者が続出しました。(48.5×52.5cm)
えどじょう ごがいかく ごもん えず そとさくらだ ごもん
【重要文化財】御作事方大棟梁甲良豊前控 享保2年(1717) 写 1帖 東京誌料6194-2
事件名になっている桜田門の平面図です。江戸城外郭26図の全体図と番所の平面図を折本に仕立てたもので、全体が国重要文化財に指定されています。第3図が「外桜田御門」で、江戸城の門に多い枡形(ますがた)構えです。枡形は敵の侵入を防ぐために工夫された門の形式で、一の門と二の門の2重の門構え、その間は直角に曲がるようになっているものです。外桜田門は震災・戦災を乗り越えて現存しており、国重要文化財に指定されています。(29×40.3cm)
8 〔萬延元年〕櫻田書類 二
まんえん がんねん さくらだ しょるい
蜂屋茂橘著 [天保12年(1841)]自序 自筆 1冊 特別買上文庫2518-110
田安家家臣で随筆家の蜂屋茂橘(はちやもきつ)が図、絵、記録類を書き写したり貼り込んだりした『椎の實筆』(しいのみふで)の付録です。4ページにわたって、アメリカの新聞から1860年5月12日の翻訳記事が筆写されています。本文冒頭には「帝國日本の摂政官三月廿四日 大君の城に謁せんとして水戸公子の巨臣一隊の私黨に襲はれ」とあります。アメリカでも、井伊大老の襲撃が報道されていたのです。記事中「三月廿四(24)日」とあるのは、旧暦では「三月三日」で、日付も正確に報道されています。(25.2×18cm)
きんせい めいぎでん ひろおか ねのじろう
きんせい めいぎでん ありむら じざえもん
歌川芳艶画 河村蔵版 2枚 東京誌料2445-K1-5 (2)、2445-K1-6 (2)
「近世明義伝」は、桜田門外の変に関わった浪士たちを描いた、小型の浮世絵シリーズです。
広岡子之次郎は、桜田門外で井伊大老を襲った18人の大半を占めた水戸浪士の一人です。変では、大老の乗ったカゴを突き破ったと言われています。重傷を負い、自刃しました。(17.9×11.4cm)
有村治左衛門は、襲撃実行部隊18人のうち唯一の薩摩浪士です。井伊大老の首を掲げたと言われています。襲撃で重傷を負い、自刃しました。(18.5×10.6cm)
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ヒュースケン暗殺
とうと あざぶ の えず
戸松昌訓図 尾張屋清七 嘉永4(1851)/文久元(1861)改正 1枚 東京誌料0432-3ア
アメリカ公使館通訳のオランダ人、ヘンリー・ヒュースケンが襲撃された現場周辺図です。襲撃地点は、「中ノ橋」北側(※北は図面左側。上部中央左寄りに横倒しで記載)といわれています。図面中央の「善福寺」(地色が赤い所)にあったアメリカ公使館へ帰る途中でした。この頃、攘夷派による外国人襲撃が相次いでおり、アメリカ公使ハリスもヒュースケンに夜間外出しないよう警告していました。実行犯は薩摩藩士とされていますが、公式には判明していません。(48.5×53cm)
べいこく こうしかん つうじ ひゅーすけん そうなん かんけい ちず および てんまつ
写 2枚 東京誌料 697-C1
ヒュースケン襲撃現場の詳細な状況が記入された図面です。血痕が路面に赤で描き込まれ、生々しさが迫ってきます。添付の顚末書に「暴徒六七人刀ヲ連ネ、左右ヨリ突進シ來リ、(中略)進ム事百歩餘ニシテ重傷ニ堪ヘズ落馬シテ地上ニ倒レ伏シヌ(中略)此圖ハ其時ノ場所ヲ記シタルモノニシテ、朱点ハ血ノ蹟ナリ。」とあります。左下の赤枠「福富町」の区画に、ヒュースケンが当日訪問したプロイセン公国赤羽接遇所があり、右上の赤枠「善福寺」にアメリカ公使館がありました。(34×48.1cm、24.2×33cm)
3 江戸城開城から東京への行幸
慶応4年(1868)1月、京都で起きた鳥羽・伏見の戦いで勝利した新政府軍は、江戸城総攻撃の準備を着々と進めていました。しかし、薩摩藩邸での西郷隆盛と勝海舟の会談により、4月11日に江戸城の無血開城が実現します。
5月には旧幕臣らが中心となって結成した彰義隊と新政府軍の戦い「上野戦争」が起こります。新政府は上野寛永寺にたてこもった彰義隊に総攻撃を仕掛け、わずか1日で壊滅させます。
7月には「江戸」を「東京」と改め、10月には天皇が京都から江戸城に到着、「江戸城」を「東京城」と改称し皇居とします。この時、市民に御祝儀のお酒が振舞われました。天皇は京都還御したのち、翌年3月に東京に戻り、事実上の東京遷都となりました。
江戸城開城
12 太政官日誌(第11)
だじょうかん にっし
和泉屋市兵衛,須原屋茂兵衛 慶応4年(1868)刊 1-178号 22冊 東京誌料1574-5
太政官日誌とは、明治初年の政府の機関紙で、現在の官報の前身にあたるものです。
江戸城開城に先んじて慶応4年(1868)4月4日に東海道先鋒総督橋本実梁(はしもとさねやな)、同副総督柳原前光(やなぎわらさきみつ)が勅使として江戸城へ入りました。画像には、この勅使により伝えられた勅諚五カ条が書かれています。徳川家の家名は存続し、慶喜は水戸へ退隠謹慎すること、城は明け渡し尾張藩へ引き渡すことなどの徳川家への処分が下されました。(21.2×14.7cm)
かつ かいしゅう やまおか てっしゅうあて しょかん
[年不詳]12月17日 1通 渡辺刀水旧蔵諸家書簡文庫3449
勝が山岡に、いつも忙しい時に申し訳ないが相談したいことがあるので会いに来てくれないか、と頼む手紙です。勝と山岡はともに幕臣で、江戸城無血開城に尽力しました。江戸城無血開城といえば、薩摩藩邸で行われた勝と西郷隆盛の会談が有名ですが、この会談に先立って山岡は西郷に会い、降伏の条件について話し合いました。このとき西郷は勝との会談を約束し、江戸城無血開城への道が開かれました。(16×24.5cm)
こども あそび たんご の きせい
刊 錦絵 2枚続 新収資料和-別177
この絵は、端午の節句にかこつけて江戸城開城を風刺したもので、諸藩や人物が、着物の柄などの符号で暗示されています。向かって右側が薩摩・長州らの率いる東征軍(部分拡大図)で、薩摩を意味する籠目(鹿児島にかけた符号)模様の着物を着た子が明治天皇と見られる烏帽子の子の手を引いています。屋敷内には、天璋院(てんしょういん)と慶喜、天璋院に庇護されている位置に田安亀之助(のちの徳川家達(いえさと))が描かれています。(37.2×49.8cm)
上野戦争
めいしょ の うち うえの
歌川芳盛筆 古河屋勝五郎 慶応4年(1868)刊 錦絵3枚続 東京誌料0461-C12
上野戦争に先立つこと約1か月半、慶応4年(1868)4月19日、自軍の寛永寺への転陣を求める新政府・北陸道先鋒軍が、同寺へ行軍する様を描いたとされています。この転陣計画は、同寺に籠る彰義隊の動静を警戒してのものであり、錦旗らしき旗を押し立て、小銃隊・大砲を引き連れての寺側との交渉は、彰義隊に対する示威行動でもありました。この日、交渉は決裂したものの衝突は免れ、決着は持ち越されることとなりました。(35.8×73cm)
めいじがん ぼしん の とし ごがつ じゅうごにち とうたい だいせんそうず
歌川芳虎筆 永島孟齋画 恵比須屋庄七 慶応4年(1868)刊 錦絵 9枚続 東京誌料1584-D1
上野戦争の戦闘の様子を、画面右から左に、三橋(みはし)から黒門(くろもん)を経て、山門、文殊楼(もんじゅろう)、さらに中堂にわたって描いたものです。新政府軍が放つ大砲や銃の弾道が、多数の線で表現されているのとは対照的に、袴姿の彰義隊は主に槍刀で応戦しており、圧倒的な兵力の差を感じさせます。画面の右端上部には逃げ惑う町人の姿が、また対角の左端下部には、座主(ざす)の輪王寺宮(りんのうじみや)らしき蓑笠姿の人が、脱出する様子(部分拡大図)も見えます。(41.9×248.8cm)
とうえいざん しょうしつ りゃくず
刊 刷物1枚 東京誌料1584-C28
上野の戦火により、寛永寺の本坊や根本中堂(こんぽんちゅうどう)など、江戸の庶民に親しまれていた伽藍の多くが焼失しただけでなく、門前・下谷・谷中など周辺の町民も多数焼きだされ、風景は一変しました(図面薄桃色が焼失範囲、▲印が彰義隊士の討死していた箇所を示します)。戦いはわずか1日で決着しましたが、大総督府側の死傷者が120名、彰義隊側の死者・負傷者がそれぞれ300名余りと両陣営ともに多大な犠牲を余儀なくされました。(26.6×33.7cm)
ふじみ さんじゅう おやぐら ほんとり えず
【重要文化財】
写 1鋪 20分の1 東京誌料6192-23
富士見三重櫓は、明暦3年(1657)の大火で天守が焼失して以来、その高さと威容から天守の代わりをなしたといわれています。資料名に「本取」とあることから建物を実測したものと思われます。慶応4年(1868)5月15日、大総督府による彰義隊掃討作戦を計画・指揮した大村益次郎(おおむらますじろう)は、夕刻上野方面に猛火が立ち上るのをこの櫓の窓から見て、敵陣が火を放ち退却したに相違ないと確信したと伝えられています。(78.5×36.5cm)
東京への行幸
とうきょうふ なかばしどおり まち の ず そのに とうきょうふ きょうばし の ず
月岡芳年筆 景橋年景画 丸や甚八 明治元年(1868)10月刊 錦絵 9枚続の内6枚存 東京誌料155-C12
明治元年(1868)10月13日、明治天皇の最初の東幸の行列を描いた錦絵、9枚続のうちの6枚です(左側3枚は未所蔵)。西洋式の鼓笛隊、騎乗の政府高官と多数の従者に先導され、天皇を乗せた鳳輦(ほうれん)が京橋のちょうど中ほどに差し掛かかろうとしています。錦旗日月旗の旗手を相撲の力士が務めたことが他の資料にも記されている点や鼓笛隊の細部の描写などから、絵師が実際に見物して描いたものと考えられます。(42×155.4cm)
ごしゅ ちょうだい
歌川広重(3世)画 海老屋林之助 明治 1年(1868) 11月刊 錦絵 3枚続 東京誌料5247-C13-1
明治天皇行幸中の明治元年(1868)11月4日、東京の反政府的空気を一掃するには天皇による「恩恵」を市民に施す必要があると考えた政府高官により「御酒下賜」が企画され、町々に3000樽の酒が配られました。各町は趣向を凝らした行列を仕立て、お祭り騒ぎで分配所のある府庁から酒樽を運びました。画中の酒樽に実在しない銘柄(「世直し」「天下泰平」)があるのは、乱世に辟易とした庶民の切実な願いを代弁したものと思われます。(36×72cm)
主な参考文献 1
【図書】
番号 | 書名--編著者--出版者--出版年月-- | 請求記号 資料コード |
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1 | 幕末・維新の「事件現場」 江戸・東京--外川 淳/著 -- SBクリエイティブ -- 2019.8 -- | T/ 210.5/ 5396/ 2019 7112307900 |
2 | 浦賀大変!かわら版にみる黒船来航--田中葉子/編 -- 浦賀歴史研究所 -- 2014.11 -- | 210.59/ 5100/ 2014 7105811820 |
3 | 船橋市史 近世編--船橋市史編さん委員会/編 -- 船橋市 -- 1998.3 -- | 213.5/ 629/ 2-2 5020230339 |
4 | 高松彦三郎筆「内海御台場築立御普請御用中日記」--高松彦三郎/[原著] -- 冨川武史 -- [2012.6序] -- | DT/ 35・210/ 5029/ 2012 7101323351 |
5 | 黒船来航と品川台場 品川歴史館特別展--品川区立品川歴史館/編 -- 品川区立品川歴史館 -- 1987.11 -- | T/ 51・25/ 3004/ 1128062315 |
6 | お台場 品川台場の設計・構造・機能--淺川 道夫/著 -- 錦正社 -- 2009.6 -- | T/ 51・395/ 5001/ 2009 5016786237 |
7 | EDO-100 フカヨミ!広重『名所江戸百景』--堀口 茉純/著 -- 小学館 -- 2013.9 -- | T/ 721.8/ 5031/ 2013 7102766570 |
8 | 歌川広重《名所江戸百景》のすべて 芸大コレクション展--歌川広重/[画] -- 芸大ミュージアムショップ -- 2007.7 -- | T/ 721.8/ 5014/ 2007 5014187054 |
9 | 江戸城 四海をしろしめす天下の府城 -- 学研 -- 2000.4 -- | T/0・090/ 5001/ 5000998701 |
10 | 外国新聞に見る日本 1本編 国際ニュース事典--国際ニュース事典出版委員会/編集 -- 毎日コミュニケーションズ -- 1989.9 -- | D/ 210.60/ 3016/ 1-1 1123905440 |
11 | 暗殺の幕末維新史 桜田門外の変から大久保利通暗殺まで--一坂 太郎/著 -- 中央公論新社 -- 2020.11 -- | 210.58/5425/2020 7113640880 |
12 | 絵解き幕末諷刺画と天皇--奈倉 哲三/編著 -- 柏書房 -- 2007.12 -- | 721.8/ 5180/ 2007 5014430432 |
13 | 勝海舟と江戸東京 樋口 雄彦/著 -- 吉川弘文館 -- 2014.1 -- | T/ 289.1/ 5113/ 2014 7103329550 |
14 | 戊辰戦争の新視点 下 奈倉 哲三/編 -- 吉川弘文館 -- 2018.3 -- | 210.61/ 5143/ 2 7110123430 |
15 | 天皇が東京にやって来た! 錦絵解析 奈倉 哲三/著 -- 東京堂出版 -- 2019.6 -- | T/ 721.9/ 5013/ 2019 7114449280 |
16 | 大村益次郎伝 木村 紀八郎/著 -- 鳥影社 -- 2010.6 -- | 289.1/ オ42/ 602 5018563259 |
17 | 江戸城 築城と造営の全貌 野中 和夫/著 -- 同成社 -- 2015.5 -- | T/ 34・521/ 5024/ 2015 7106069722 |
18 | 江戸城 1 -- 至文堂 -- 1992.10 -- | D/ 5215/ 3307/ 1 1125564171 |
【雑誌記事】
番号 | 論文名 著者 『雑誌名』(出版者)--巻(号)--出版年 掲載ページ | 資料コード |
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1 | 幕末の未解決刺殺事件 一八六一年のヒュースケン暗殺。<日本のなかのドイツ④最終回>ヨーゼフ・クライナー著 『東京人』(都市出版)--151号--2000.3 p.91-97 | 5000507732 |
2 | ヒュースケンのことゞも 今宮 新著 『史学』(三田史学会)--36(2/3)--1963.9 p.1-20 | ※都立欠号 |