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【都立中央図書館】トークイベント「誰もが輝ける社会へ〜私たちのパラリンピックへの挑戦〜」を開催しました。当日の様子をお知らせします。

2017年12月18日

平成29年12月3日(日)に、コーディネーターに横浜桐蔭大学の田中暢子(たなか のぶこ)准教授(以下、「田中先生」)、ゲストに視覚障害者柔道選手の廣瀬順子(ひろせ じゅんこ)選手(以下、「順子選手」)、廣瀬悠(ひろせ はるか)選手(以下、「悠選手」)をお迎えしてトークイベント「誰もが輝ける社会へ〜私たちのパラリンピックへの挑戦〜」を行いました。当日は、100名近くの参加者にお越しいただきました。都立図書館で、障害者スポーツをテーマにしたトークイベントは2度目の開催となります。(昨年度のイベントの様子はこちら
本イベントをきっかけに、多くの方が、障害者スポーツへの関心を深められることを願っております。

トークイベントの様子の写真

(左から、田中准教授、廣瀬順子選手、廣瀬悠選手)

当初コーディネーターを予定していたフェリス女学院大学の和田浩一教授は、やむを得ない事情により欠席となりました。楽しみにされていた方には大変申し訳ありませんでした。
代役として急きょコーディネーター役をお引き受けくださった田中先生は、日本パラリンピアンズ協会のアドバイザーや障害者サッカー連盟、車いすバスケットボールの理事などを務められ、障害者スポーツ・パラリンピックの専門家として第一線でご活躍されています。
トークイベントは、田中先生の円滑な司会で進められ、障害者スポーツ選手をとりまく環境や、選手のお二人の経験など、貴重なお話を伺うことができました。
トーク内容を以下にご紹介します。

廣瀬順子・悠選手インタビュー

視覚障害者柔道を始めたときのこと

もともと、健常者として柔道をやっていたお二人。お二人とも視力の低下をきっかけに一時柔道を離れますが、視覚障害者柔道選手として、再び柔道と関わることになりました。
「当時の視覚障害者柔道連盟のホームページはあまり更新もなく、情報が乏しかった。柔道をまた始めようと思ってもなかなか始められなかった」と語ったのは順子選手。
一方で、悠選手は、健常者として柔道をしていたときの道場があまりに厳しく、視力の低下をきっかけに柔道から離れることができ、正直なところ嬉しかったと笑い混じりに語っていました。
視力が低下した当時は、遺伝性の強い緑内障を患ったことに対し、「親のせいだ」「なんで自分だけ」と家で暴れてしまうこともあったそうです。そんな悠選手が柔道の世界に戻ることを決めたのは、ご家族の期待に応えたいという恩返しの気持ちもあったとか。

視覚障害者柔道とは

驚くべきことに、悠選手は、練習を全くせずに、視覚障害者柔道の初めての試合に挑んだそうです。
「優勝できると思っていた」と悠選手。結果は準優勝でした。相手は全盲の選手だったそうです。「(視覚障害者柔道が)組んだ状態でスタートすることは知っていたが、それ以外は普通の柔道と同じだと思っていた」とのこと。組んだ状態から始まると、すぐに技をかけられてしまうという違いがあるそうです。

結婚について

お二人が順子選手の「逆プロポーズ」で結婚したというのは有名なエピソード。「迷いはなかったのか?」という質問に対し、「一日だけ迷った。その一日は迷いまくったが、それ以上は迷わなかった。」と悠選手。「順子さんは前向きな性格だし、僕も楽観的なので、二人で乗り越えられると思った」とのこと。
「日常生活も、選手としての生活も共にしていて、イラッとすることはないのか?」という質問については、「悠さんは天才肌なのでなんでもすぐできてしまうんですが、私が同じことを何度教わってもできないときは、悠さんがだんだんイライラしてきているのが分かる。」と順子選手。
ピリピリしてしまうことがあっても、仲睦まじく過ごしていらっしゃる様子が、お二人から伝わってきました。

パラリンピック出場後の変化

順子選手は、パラリンピック出場をきっかけに、「障害者ではなく、スポーツ選手として認識されるようになった」といいます。順子さんは、見た目には健常者とあまり違いがありません。「障害が無いように思われるのでは?」という田中先生の問いかけに対し、「普段はあまり白杖を持たずに生活しているが、障害があることに気付いてもらえないときがある。障害があることに気付いてほしいときには白杖を持つようにしている」とのこと。
田中先生も、今は車いすで生活されていますが、車いすに乗らずに生活されていたときは、そのまま電車に乗っても席を譲ってもらえず、杖を持っていると席を譲られるという経験があったそうです。
一方で、悠選手は、「健常者と一緒に練習することがあるが、障害者柔道と健常者の柔道ではレベルが違う。強いていを保つのが大変」と、会場を笑わせました。「でも、そのくらい本気でやってくれることはありがたい」と仰っていました。

会場の様子の写真

(会場の様子)

練習環境について

「以前よりも練習環境が良くなった」と悠選手。かつては、練習したくても障害を理由に受け入れてもらえないことがあったそうです。怪我をされると困るという意識があったのではないか、とのことです。田中先生によると、「パラリンピック選手の五人に一人が、障害を理由にスポーツ施設の利用を断られたことがある」というアンケート結果も出ているそうです。

障害者柔道を通してやりたいこと

この問いかけに対し、悠選手はこう答えました。「今のところ、障害者と健常者の関係はあまり上手くいっていない。いろいろなところで、差別や区別が存在している。しかし、柔道は、障害者と健常者が一緒にできるスポーツ。柔道を通して、障害者を身近に感じてもらえると思う」 順子選手は、「いろいろな人と出会うこと」と答えました。

パラリンピックとは

ここからは田中先生が、パラリンピックの歴史・経緯について、お話しくださりました。

キーワードは「共生社会」

「共生社会」は東京2020大会の基本コンセプトにもなっているキーワードです。一部のグループの方が排除されてしまうような社会のあり方を変えようということが目標とされているそうです。

パラリンピック=あらゆる障害の大会ではない

誤解しがちですが、パラリンピックは、あらゆる種類の障害を持つ方が出場できる大会ではありません。パラリンピックが対象とする障害種別は、肢体不自由、障害、知的障害だそうです。例えば、聴覚障害のある方は、パラリンピックではなく、デフリンピックという大会に出場する、というように、パラリンピック以外にも、さまざまな大会があるということは、あまり周知されていないことかもしれません。

パラリンピックの父、グッドマン博士

今や当たり前になった障害者スポーツですが、かつては考えられないことだったそうです。障害者とスポーツを結び付けたのが、グッドマン博士です。グッドマン博士は、ロンドンのストーク・マンデビル病院国立脊髄損傷センターの所長として、治療にスポーツを取り入れる画期的な方法を導入しました。「失われたものを数えるな、残っている機能を最大限に生かせ」という言葉は障害者スポーツの至言として語り継がれています。

パラリンピックはニックネーム?

今や広く浸透している「パラリンピック」という大会名称ですが、1964年の東京パラリンピックで初めて使われた名称だそうです。paraplegia (下半身不随)とOlympics (オリンピック)を組み合わせた造語で、1964年当時はまだ正式名称ではなく、ニックネームの位置づけだったそうです。

リオから東京へ

リオ2016大会の思い出

リオ2016大会の結果は、順子選手が3位(銅)、悠選手は9位でした。順子選手は今日のためにリオ2016大会の銅メダルを持ってきてくださりました。リオ2016大会のメダルは振ると音が鳴るようになっています。最後のフォトセッションでは、観客の皆さんが、順子選手の銅メダルに触れるという貴重な体験ができました。

フォトセッションの様子の写真 1枚目

フォトセッションの様子の写真 2枚目

(フォトセッションの様子)

悠選手は9位という結果でしたが、初戦でロンドン2012大会の金メダリスト、敗者復活戦で同大会の銀メダリストと当たってしまったというエピソードを披露し、会場は同情交じりの笑いに包まれました。「運も実力のうちということですね」と田中先生。

リオから東京へ、私たちにできること

「リオへ行ってみてどうだったか?」という質問に対し、順子選手は「道のいろんなところに穴があって、日本のほうが住みやすいと思った。でもリオのほうが周囲の人が助けようとしてくれた」と語りました。
東京2020大会に向けて、悠選手は「日本の良さはおもてなしだと思う。コミュニケーションでおもてなしをすれば日本の良さが伝わる」と語りました。
順子選手からは、「視覚障害にもいろいろなバリエーションがある。困っているのかもと思って積極的に声かけをしてほしい」とメッセージがありました。

質疑応答

(1)パラスポーツの指導員をしています。東京2020大会では、廣瀬夫妻にぜひアベックメダリストになって欲しいです。その後、競技人口が増えていって欲しいですが、受け皿はあるのでしょうか?
(順子選手)地方で視覚障害者柔道を始めようと思っても、連盟が紹介できる道場があまりないのが現状。全国に拠点を。
(悠選手)柔道のスペシャリストはいるが、パラスポーツの指導者がもっと育っていって欲しい。

(2)東京2020大会まで1000日を切りましたが、強化トレーニングは始めているのでしょうか?
(二人)リオ2016大会が終わった時点で、東京2020大会を目指すと決めていたので、その時からです。

まとめ

「2人にはこれからも良い広告塔であってほしい」と田中先生。
最後に田中先生から、今後への問題提起も込めて、2つの問いかけがありました。

今の競技環境には満足しているか?

悠選手が答えました。「今の競技環境には満足している。今は練習に集中できるので助かっている。でも、企業のアスリート雇用枠で競技ができているのはあくまで一部の人だけ」
悠選手は、かつて上場企業に勤めていたとき、週に1回程度しか練習ができなかったそうです。
パラアスリートを取り巻く競技環境などの問題が浮かび上がりました。

東京2020大会に向けて、選手として何を伸ばしていきたいか、そして私たちにお願いしたいことは?

順子選手は、「まずは東京2020大会に2人で出たい。東京2020大会はあくまできっかけであり、それで何かが変わるわけではないと思う。障害者の生活改善につなげていければ」と語りました。
悠選手は、リオ2016大会後、銅メダルを取った順子選手との格差を感じてきたといいます。「東京2020大会は、僕が金メダル、順子さんが銀メダルで3色揃えたい」と語りました。
続けて、「東京2020大会の柔道の会場は武道館で、何万人も入る。今日ここにいるみなさんには必ずかけつけてもらいたい。2日目は順子さん、3日目に僕が出る。順子さんのほうがメダルの可能性が高いので、特に2日目にかけつけてほしい」と冗談めかして語りました。

最後に、田中先生から、「東京2020大会では、みんながウェルカムという雰囲気で、いろいろなかたちでボランティアや街での声かけなど、いろいろなかたちで東京2020大会に関わってほしい」とまとめがあり、トークイベントは終了となりました。

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