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絵本のなかのグリム童話-『しらゆきひめ』は金髪か

平成16年度 子どもの読書に関する講座
絵本のなかのグリム童話-『しらゆきひめ』は金髪か
宮下啓三氏

宮下啓三氏の写真

都立多摩図書館児童青少年資料係では、平成16年9月10日に、「子どもの読書に関する講座-公開講座」として、慶應義塾大学名誉教授、宮下啓三氏を講師に、「絵本のなかのグリム童話-『しらゆきひめ』は金髪か」と題する講演会を開催しました。
宮下氏は、今日日本の子ども達が目にするグリムやアンデルセンの絵本が、どのような問題を持っているかを、実物を示しながら、深い理解に基づいたわかりやすい言葉で、時にはユーモアを交えながら語ってくださいました。
この記録は、そのときのお話を児童青少年資料係が、講師のご了承を得てまとめたものです。

表1 親しみを感じる外国の昔話・民話

書名合計男110名女311名
シンデレラ 276 45 231
白雪姫 257 42 215
赤ずきん 162 34 128
マッチ売り娘 123 29 94
人魚姫 115 27 88
ヘンゼルとグレーテル 99 17 82
おやゆび姫 78 14 64
みにくいあひるの子 76 22 54
眠り姫 62 5 57
3匹の子豚 45 9 36
ブレーメンの楽隊 40 11 29
ジャックと豆の木 37 11 26
ピノキオ 29 11 18
青い鳥 25 3 22
裸の王様 24 9 15
ピーター・パン 23 6 17
長靴をはいた猫 23 7 16
狼と子山羊 23 6 17
幸福な王子 19 4 15
フランダースの犬 17 2 15
アリス 15 4 11
ハイジ 12 2 10
ハーメルンの笛吹き 11 4 7
赤い靴 10 0 10

1.メルヘンのポピュラー度

今から10年前に、総計1200人ほどの人たちを対象に、「西洋の物語として記憶にあるもの、親しみを感じているものは何か」というアンケートを行いました。そのうちの途中経過として作ったものが表1です。ここに集計されているのは500人足らずですが、実際には1000人を越えても順位は変わりません。従って、これを日本の平均的な世論調査の結果だと思ってかまわないと存じます。
本当は昔話と新しい話の区別をつけたかったのですが、実際には一般の人たちの記憶の中では、区別はつきません。私が作ったリストを回答者に見せ、グリムに丸を、アンデルセンに三角をつけごらんなさいという問題を出してみましたが、全問正解者は全くいませんでした。それが実情なんです。つまりグリムと言い、アンデルセンと言い、「どちらも知っているよ」と言いながらも、実際には、絵本の段階で出会っているものですから、何がグリムで、アンデルセンかということを考える機会がありません。大人になってから、子どもに本を買い与えるときに、初めて両者に区別の眼が行き届くが、そのときには既に遅く、自分の記憶の中に沈殿している知識ではないわけです。

2.メルヘンとは

ドイツ語の「メルヘン」は「童話」と訳されますが、メルヘンにもいろいろな種類があります。
一つは昔話であるメルヘン。「昔々あるところに」と言って、誰が作ったかわからないお話、作者知らずの伝承と呼ばれている物語の類です。もう一つが、昔話のように短くて単純な文体ではあるけれど、作者がいて、作者の文学的な意志によって生み出されたもの、つまり創作である作品、文学作品です。そして、グリムとアンデルセン。日本ではともに童話と呼ばれていますが、グリム兄弟の方は昔話を集めたもの、つまり「桃太郎」や「舌切り雀」と同じ類だということです。片や、創作された文学としてのメルヘン、その代表格がアンデルセンです。アンデルセンは自ら物語を創ろうという近代的な文学の創作の精神を持って創りました。それをいっしょくたにしてメルヘン、あるいは童話と呼んでよいのかどうかという問題を一つ掲げておきたいと思います。

3.アンデルセンの『おやゆびひめ』の誕生のしかた

ここで皆さんに映像を見ていただきます。現代の子ども達は本ばかりではなく、テレビのアニメなどによってもこの種の物語に接していますので、子ども達が見ているアニメはどんなものかというとことからスタートしてみたいと思います。
このようなアニメが野放図に作られているということに、私は悲しみを感じます。チョウチョがなにやら銀座のキャバレーめいたブラジャーをしているということについては、まだ良いとしましょう。それよりむしろ「私を育ててくれたおばちゃんありがとう」というおやゆびひめのせりふが一体どこから出てくるのか、カエルにさらわれるのを防ぎもできなかった女性に対して、何ゆえおやゆびひめは感謝の気持ちを持てるのか、といったつじつまの合わなさ、目が見えないはずのモグラがおやゆびひめを見て美しいと言っているせりふのおかしさ、あれもこれも考えますと、きわめて奇妙な『おやゆびひめ』だという気がいたします。
4年前に、私は、自分の住んでいる神奈川県の湘南地方、文化度が高いと言われている都会で、1日のうちに本屋を訪ね歩いて、4種類の『おやゆびひめ』を買いました。別に図書館を巡り歩いたわけではなくて、一番簡単に手に入るものを、ということで買いました。ということは、その日自分の子どものために『おやゆびひめ』を買ってやろう志した人が、このどれかに出くわしているわけです。この4種類のうちに、3種類の違う書き出しがあります。一体どれが本物でしょうか。
1番目は、「あるところに一人ぼっちのおばあさんがおりました。おばあさんはまい日かみさまにおいのりをしていました。『子どもがさずかりますように。』ある日、かみさまがあらわれて、一つぶのまほうのたねをおばあさんにわたしました。」注1というわけで、神様がおばあさんに種をくれます。2番目、「むかしあるところに、おはなのたいへんすきなひとりのおかあさんがいました。あるあさ、おにわのはなに水をやっていますと、チューリップのうえにおやゆびくらいのかわいいかわいいおんなのこがすわっておりました。『まあなんてかわいいこと。』」注2つまり偶然見つかった、格別ほしいとも思っていなかった。3番目、「むかしあるところに、とてもこどもをほしいとおもっているおんなのひとがいました。『わたしにこどもをください。』おんなのひとがたのむとまほうつかいがたねをくれました。」注3
種をくれたというという点では1番目と同じだけれど、神様なのか、魔法使いなのかどっちでしょう。4冊目では、「あるところに一人ぼっちでさびしくくらしている女の人がいました。女の人はそれはそれはさびしくて、『どうか子どもをおさずけください。』と、まい日神さまにおいのりしました。そんなある日、女の人のまえに女神さまがあらわれました。」注4さっきは神様ですから、絵がなければ男性か女性かわかりませんが、ここでは女神様になっています。
好きなものを選べと言う問題ではありません。アンデルセンは自分の意志で文学作品を描いた人です。ある目的を持ち、情熱を持って作品を、しかも子ども向けの作品を作りました。とすればどれかがアンデルセンの気持ちに添っているが、どれかは添っていないということをあらわします。しかもこれらは、とても手に入りやすい形で売られています。一つは今でも駅の売店で売られています。駅の売店で売られているということは、多くの場合、サラリーマンである男性が、どこかで1杯飲んできて、帰りが遅くなった、子どもに対する罪悪感からつい1冊おみやげに買ってやろうというために置かれているようなものです。いずれも子どもの手に渡りやすいものであるということを頭の中に入れておいていただきます。先ほどのアニメは、このうちの「偶然に見つかった」というものを選んで、ストーリーを作っていました。
これは、勝手に読者が趣味で決めるべき問題ではないと思いますので、アンデルセン自身が書いた文章を見てみることにいたします。アンデルセンはデンマークのオデンセーというところで生れたデンマーク人でありましたので、デンマーク語で原作を創っています。原作を見ますと、一つだけ大文字で「H」と書かれた「Hex」という文字があります。さらに、「Hesen」という文字もあります。これは英語のwitch、ドイツ語のHexeという言葉に当たる「魔女」を表す言葉であります。ということはつまり、神様ではなくて、魔女または魔法使いというのが正解だということですね。
ではなぜアンデルセンはここで魔女を登場させたのか。日本の薄い絵本、あるいは単純な短いアニメでは省略されてしまっているけれども、このおやゆびひめがたどった冒険、運命の変転をたどると、ほぼ1年半の長きに渡っています。その間に、寂しくそして寒い、厳しい冬が入り込んでいます。
結論から申しますと、この物語でなぜ神様が授けてくれなかったのかという点に尽きるんですが、アンデルセンの時代、今から150年ほど前の時代、子どもが生れるための最も望ましい条件は、神様の前で愛を誓って結婚をする男女からの誕生です。神の祝福を受けて、夫婦の契りを交わした者から生れる子ども、それが本来の子どもの誕生であるはずなのですが、この場合そうではありません。つまりある事情があって、正式の結婚ができないでいる女性が子どもをほしがり、子どもを得たとしたらどうなるか、神の庇護を受けない不幸な少女の物語が見えてくるわけです。神の祝福を受けていないがゆえに、苦しい生活を送らなければならなかった少女が、苦しみつつも、傷ついたツバメに愛情をかけるという、人情を発揮するということに報われて、幸福を授かる。しかも自分の住んでいる世界ではその幸福は得られず、はるか遠くの土地に行って初めて何の偏見もなしに、自分を受け入れてくれる男性を見出したというストーリーに見えてこないでしょうか。アンデルセンはそこまで書いていませんから、読者がどう感じるかという問題で、解釈は預けてしまっていますが、少なくとも女性が勝手に子どもをほしがった、ペットのように飼っていましたというそんな話では到底ありえません。そんなきれいごとで終わらせる話にするくらいだったら、むしろ子どもに伝えない方がよっぽどましだというのが、私の意見です。

4.グリム兄弟とアンデルセン

グリム兄弟とアンデルセン、ともにちがった種類の物語を集めたり、作ったりはしたけれども、無関係であったわけではありません。
アンデルセンはもともと演劇の世界で立派になろうという夢を持っていました。これはお父さんがアンデルセンの子ども時代に、デンマークの劇作家の作品を読んで聞かせたということに動機がありました。家庭の中で物語を読んでもらうことの喜びを感じて、芸術の世界に気持ちを向けるようになったのですが、アンデルセンは容姿も才能も十分でなく、俳優として立つことを断念せざるを得ませんでした。そんな屈折があって、小説を書くのですが、うまくあたりません。日本では森?外が『即興詩人』を訳して有名だったけれど、当のデンマークでは認められず、途方にくれた挙句、半ばやけっぱちで書いたと思われるのが童話であったのです。
その童話のモデルになったものの1つが、1812年に初めて活字になったグリム兄弟の昔話でありました。それとアラビアンナイトなどから刺激を受けて、アンデルセンは子ども向けの物語を書くようになり、それが幸い当たりました。というわけでアンデルセンの書いた物語には、『子どものためのお話集』という「子どものための」という形容詞が初めのうちつけられていました。『おやゆびひめ』はそのうちの一つです。
ところがあるときから、アンデルセンは自分の物語が、子ども達だけに読まれることをいやがるようになります。むしろ大人に読んでほしい、つまりは大人にも子どもにも読んでほしいという気持ちが高じて、後の方の作品は、むしろ子ども向きとはとうてい言えそうもない長い話であったり、複雑な話であったりもします。
つまりアンデルセンの物語、全部で150いくつかありますが、全部が童話であったわけではなくて、途中から童話であることをやめた物語集です。にもかかわらず日本ではそれを全部童話と呼んでしまっています。ここにも一つ大きな誤解の原因があります。例えば、『マッチ売りの少女』は、どう見ても子ども向けの話と言ってしまえない要素を含んでいました。文学の歴史で言えばリアリズムというレッテルがつくことになりますが、ある部分で童話と呼んでしまうには惜しい、あるいは多少童話と呼ばれる条件を欠いた作品ともいえるようなシリアスなものになっています。既に「子どものための」というレッテルをアンデルセンがはずしてしまった後の作品だということだけご承知おきください。そもそもアンデルセンがどういう意図を持って創ったのかというところにまで、気持ちの行き届く人たちによって本の良し悪しが決められてほしいという私のメッセージが、届いてくれることを切に祈ります。

5.『しらゆきひめ』は金髪か

私自身は金髪であろうがなんだろうが、致命的な影響はないと思っています。しかし同時に金髪であるかないかということは、それなりの本選びにとっての眼のつけどころになります。そもそもヨーロッパの文学と特に演劇を研究していた私が、突如としてグリムの昔話に眼をつけるようになったのは、私自身の子どもが絵本を見るようになってからのことです。子どもが見ているグリムやアンデルセンの本を見ておやっと思ったのがきっかけでありました。少年時代にグリムやアンデルセンを通過してきて、多少知っているつもりでいたから、よもや本の1冊ごとに内容が違うとも考えていませんでした。いざ子どもに与える段階になって、1冊ごとに内容が違っているらしいということに疑問を感じました。
当時、それではというので、1番複雑で1番本の種類の多かった『しらゆきひめ』を買って帰りました。ほとんど毎日のように1冊ずつ新しい『しらゆきひめ』を買って帰ってくるものですから、全部で30冊ぐらいになりました。つまりこれは大事な点なんです。図書館にある本を探すのではなくて、自分の責任において買うことによって、初めて批評する権利が生じると自分は信じているからです。せっかく買ったからには、子どもに見せようという貧しい親の感覚で、与えたものですから、うちの子はついに「もう『しらゆきひめ』は見るのもいやだ」と叫ぶくらいに、当時あらゆる種類のしらゆきひめを見る子どもになりました。結果的には、本を読むのが好きな子どもになりましたから、間違ってはいなかったとは思うんです。

6.『しらゆきひめ』を点検する

私が、どういう手順で、しらゆきひめの探求をし始めたかというと、単に良し悪し、きれいの、読みやすいのという獏然としたことではなしに、もっと具体的に、納得のいく方法で点検してみようと考えました。「『しらゆきひめ』日本語版絵本のチェックリストテスト結果」(表2)で示すように、1番から12番までのチェックポイントを作りました。このチェックポイントごとに、原作通りであるかどうか、つまりグリム兄弟が集めた昔話集通りになっているかどうかを点検しようと思い立ったわけです。
そこで、子ども向きではなくて、実に丹念に原文どおりに翻訳をしている岩波文庫をベースにします。一体に文庫本の翻訳というのは子ども
に媚びていませんから、一応規準にすることが可能です。そこで岩波文庫をベースにして、黒丸は、その絵本には出てこないという意味です。
「1番 窓辺」では、「むかし昔、冬のさなかのことでした。おきさきが黒檀の枠の窓ぎわに腰をおろして」注5と、窓辺が舞台装置になっています。ドイツの民俗学者、或いは、精神分析学の系統を引く民俗学者の間では、窓という舞台設定には「憧れ」という気持ちが含まれているとされています。古い時代のお城です。今のように窓が大きくない。しかも石で作られた壁の厚い建物、光が入ってくることは極めて少ない。しかもそこにおきさきといえばかっこは良いが、実はそこに閉じ込められたも同然の女性の暮らし。窓が唯一の外に繋がっていく解放の場所でもある。つまり広い世界への憧れを象徴するのだと。民俗学者の精神分析的解釈に過ぎません。でも一応そこを気にしてみることにしました。
次に、雪に見とれていますと、針仕事をしているのですが、「ちくりっと針で指をつっ突いて、血が三滴、ぽたりぽたりと雪のなかへ垂れました」という場面があります。さすがに血を描いた絵本は日本では見つかりません。血が3滴ということは、どの絵本にも出てこないということで、黒丸を付けました。つまり削除してしまっているものに黒丸がついているわけです。だけどもこの血の3滴は、とても大きな意味を持っています。
「毛髪の色」、さあここにしらゆきひめの髪の毛は金髪かどうかというなぞへの重大な眼のつけ所があります。3滴の血を見ておきさきは、黒檀の窓枠のように黒い髪の毛を持ち、雪のように白い肌を持ち、血の色のように血色の良い元気な子どもが欲しいと望みます。ここに黒い髪の毛の根拠があります。つまり結論は、黒髪です。ヨーロッパ人、特にアルプスから北側にはブロンドの女性が多いということもあって、黒というのは南国系統の、エキゾチックな髪で、伝説や昔話の世界では黒い髪の女性の魅力がしばしば出てきます。従って、物語に忠実であれば、黒髪にならざるを得ないというわけです。そこに3滴の血を描かなければ、黒い髪の毛の子どもを望むという部分もないわけですが、ここでは特に絵本の女性の髪の毛の色で黒丸白丸の区別をいたしました。
「4番 妃の顔色」。やがてしらゆきひめを産み落として母親が死んでしまい、継母が来る。彼女は魔法の鏡を持っている。その鏡の前で「この国で1番美しいのは誰か」と聞くと、「おきさきさま、あなたでございます。」と言うので、安心していたが、ある日突然「あなたは美しいが、しらゆきひめはもっと美しい」と言うものですから、ショックを受けるというシーンです「おきさきは、きもをつぶして、ねたましさのあまり黄いろくなったり青くなったりしました。」さすがに絵本でこの色を表すことができなかったのでしょう。実は「黄いろくなったり青くなったり」という言葉の黄色という言葉に、妬みを表す象徴的な意味あいがありました。それはヨーロッパ人たちが白い肌をしているというところから、肌が黄色になるということは、内臓、特に肝臓の具合が悪くなって、黄疸にかかるというところからきた連想らしいと言われています。
ここまではあまりこだわらずにいてもいいのではないかと言えそうなところですが、一番興味深いのは5番です。「姫の内臓」、妬ましさのあまりにおきさきは狩人を呼び出して、しらゆきひめを殺してしまえと言います。狩人に対してこういいます。「しらゆきひめを殺してそのしょうこに肺臓と肝の臓を持ってかえるのだよ」。狩人は言われたとおりに、しらゆきひめを森へ連れて行って、肺臓と肝臓を持って帰ると、継母はそれを塩漬けにして食べます。それがしらゆきひめ自身の内臓であったとすれば、物語はそこで終わってしまいますが、実際には、狩人はしらゆきひめを不憫に思って森の中に逃がしてやります。そこへ出てきた子どものイノシシを殺して、その内臓を持って帰って「これがしらゆきひめのものですよ」とこう言います。ここはあまり残酷すぎるという理由で、かつて、菊池寛という『文芸春秋』を作った作家ですが、彼はドイツ語が得意でしたので、自分でグリム童話を訳しました。とても良い訳です。しかしこの箇所だけは、さすがに直訳することがためらわれて、血をハンケチに擦り付けて持って帰って、これがしらゆきひめを殺した証拠だと言うんですが、血液鑑定するわけでもないから、近代的な推理小説の読みすぎであって、ちょっと納得のいかない書き換えですよね。でもそれを始めとして、いずれもここは一番処置するのに困ってカットされてしまうのが宿命になりました。
「代わりにブタの心臓をおきさきのところへ」と書いた本があります。でも森にブタがいるんでしょうか。それに、肝臓を心臓に変えている。でも心臓と言うのは近代的な話であって、古代の人にとっては三角形をしている、生命力の源泉である肝臓がなんと言っても一番興味の的でありました。日本でも『猿の生き胆』の話がそうですよね。落語でもそうです。自分の父親が明日をも知れない病にかかっている。元気の良い男の肝臓を食べさせれば治ると聞いたものですから、そそっかしいクマさんがお隣のはっつぁんを見て、「あいつの肝臓をおとっさんに食べさせよう」と言って、殺そうとして馬乗りになると、そのとき目を覚ましたはっつぁんが言った。「ああ肝をつぶした」「何、肝がつぶれたんじゃあしょうがねえ」と言ってあきらめるという噺があります。このように肝と言うものが、古い時代の人にとって最大の関心の的でありました。
「6番 小人の歳」。実はここに一番興味深い問題があるように思われます。小人とは一体何なのか。特に『しらゆきひめ』に登場する小人たちは、山、ドイツの場合は山と森とはお互い重なり合っている概念ですが、山に入って、山の奥を掘り進んで鉱石、金銀銅、その他もろもろの金属を掘ることを仕事にしている小人たちです。小人にもいろんな種類がありました。『しらゆきひめ』の小人たちは森の奥の精霊、妖精の一種です。
妖精と呼ばれるものは、古い時代はルールがありました。今では何でもかんでも妖精にしてしまいますが、中世や近世には、妖精には4種類しかありませんでした。それは、空気と火と水と土。面倒だと思ったら「風林火山」と覚えておくと覚えやすいです。要するに空気イコール風、風の精ですね。これはシェイクスピアの『テンペスト』に登場する空気の精です。火の精、水の精、そして土の精。今この小人たちは土の精に属します。イギリス系統ではとてもかわいらしい軽い妖精が、よく虫の羽を付けて描かれますけれども、ドイツ系では土の小人は、すべて醜く年をとった男性としてイメージされます。それもなるべく醜いこと。ここに一つ大きな絵の問題が生じるわけです。なまじ印刷技術が発達してきますと、絵本がどんどん美しくかつ大きくなります。その結果が魅力的なものを描こうとする努力が払われるんだけれども、小人たちを醜く描くと言うのは日本人にはとても難しいことです。というのも日本人が考える小人は『竹取物語』のかぐや姫か、せいぜいおわんに乗った『一寸法師』くらいのもので、いずれもかわいさがその特徴であるからです。年をとって醜い小人というのはなかなか想像しにくい、というわけです。
「7番 忠告」。森に逃げこんだしらゆきひめが、小人の家を見つけて、そこに住むことを許されます。小人たちは、毎日森に仕事をしに行きますから、昼間留守番をするのがしらゆきひめの役目となります。この小人たちは妖精ですので、人間にはない予知能力があります。だから、継母がやってくるであろうという予知能力を発揮して、忠告を与えますが、元の物語では3回忠告をします。「継母に気をつけるんだよ」、「決してうちに入れるんじゃないよ」、「どんな人が来ても決して戸を開けないように」。次第に忠告がエスカレート、つまり精密さを増していることにお気づきでしょう。それもそのはず、それは8番の「誘惑」に結びつくからです。
嫉妬深い継母はしらゆきひめを3回殺しに来ます。1つは体を細く見せるための胸にしめる紐。次は毒を仕込んだ櫛、最後に「毒な毒な林檎」。「毒な毒な」という不思議な日本語は岩波文庫の訳の言葉です。でも子ども達向けの絵本は、たださえ長めで複雑なストーリーを持っている『しらゆきひめ』を薄くする必要がありますので、もう毒リンゴだけで済ませてしまいます。と言うことは、もはや忠告を繰り返す必要もないということになりますね。日本の多くの絵本では継母はたった1回でしらゆきひめの殺害に成功してしまう。
「9番リンゴ」。岩波文庫では、「このりんごをまっぷたつに切る。赤いほうはおじょうちゃんたべなせえ、白い方は」。何も知らないしらゆきひめはリンゴを一口食べました。リンゴが出てこない『しらゆきひめ』はないはずですから、ここに黒丸がつくわけはないと思うんですが、なぜ黒丸としてしまったかというと、元の物語ではリンゴを2つに割って、半分こずつ食べたとあります。でもそれはめんどくさいと言うので、丸いままリンゴをあげる、かぶりつく。ある本ではごていねいにリンゴをかじるのはいけませんよという家庭のために、ちゃんと皮をむいて、いくつにも切って食べるしらゆきひめが出てきます。
なぜ黒丸にしたかといいますと、二つにリンゴを割るということに意味があったからです。ヨーロッパのリンゴは日本よりやや小ぶりですから、だいたい握りこぶし大だと思いましょう。リンゴというのは、だいたい心臓の大きさで、赤いとなればますます心臓を連想させます。というところから民俗学の世界での話ですけれども、地域によって、これが愛情の証になりえます。特にグリム兄弟の出たドイツの一部の地域で、今でも伝えられているほほえましい言い伝え、それは娘が、リンゴを2つに割って、半分を食べて、後の半分を枕の下に入れて寝ると未来の男性が夢に現れるという言い伝えです。リンゴが、そのように心臓との連想から、愛情及び信頼の証とされることがままあるわけです。継母は毒の入っていない方を自分で食べてみせて信用させたうえで、しらゆきひめが毒入の部分を食べて、命を落とすという話になっているわけです。
さて、しらゆきひめは死にましたが、そこで大きな問題が生じます。「10番の時間」。これはしらゆきひめが死んでから王子が出現するまで、どのくらい時間がたっているかという問題です。「こうやって雪白姫は」、岩波文庫では『Snow White』に当たる言葉を文字通り「雪白」と書いたわけですが、「永い永いあいだ、柩のなかにはいっていましたが」とありますが、絵本では、まず1冊目、「小人たちはガラスのはこにひめを入れて、なきながらおそうしきをしました。そこへ。」注6すぐ王子が来るんだったら何も柩をわざわざ作る必要はなかったじゃないか、と私は思います。「ガラスのひつぎにいれて、おそうしきをしていました。そこへ王子さまが」注7「こうしてかなしみの月日がすぎていきました...。やがてめぐってきた春のある朝」注8これなどはむしろ貴重品です。すぐに王子が現れたわけではなかったからです。
原作では「永い永いあいだ」となっています。これはグリム童話、200を全部読む人にしかわからないのですが、ほかの物語のなかに、この「永い永いあいだ」が何年くらいであるか推理させるストーリーがあります。大体7年間と考えられます。つまり、しらゆきひめが継母の嫉妬を買うのは7歳です。つまり7歳になって初めて女性と認められる。だけども7歳で死んでしまったんでは、結婚適齢期といえません。当時の結婚適齢期は14、5歳です。シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』も、ジュリエットは14歳でロミオと恋をします。その結婚適齢期を迎えるまでの時間稼ぎをする必要がありました。それが「永い永いあいだ」というわけでもありました。せっかく小人たちが3回も親切な忠告をしてくれるのに、ことごとく裏切る。それほど子どもぽかったしらゆきひめが成長して、一人前の女性として夫を迎えるまでの成長の時間がどうしてもほしい。昔話はそういうことはきちんとしています。その少女の時期から脱却する必要があったというところがこの「永い永いあいだ」というわずか3つの言葉。これを無視してしまうと話がおかしくなってしまわないだろうかというのが、非常に大事な問題だと私は思っています。
「11番 生き返り」。柩におさまっているしらゆきひめ、あまりの美しさに、しかも生きているようだというので王子が自分の城に持ち帰ろうとする。それを運ぶ家来が木の根っこにつまずいて柩が大きく揺れる、そのショックで、のどにつまっていたリンゴのかけらが飛び出すという物理的なショック療法によって生き返ります。そこをどのように日本の絵本は描いているかと言いますと、「王子様はひざまずいて、姫を見つめました。姫を抱き起こしました。」抱き起こしてその弾みでリンゴが落ちるという仕掛けになっています。これが今の絵本では大勢を占めている。しかしこれはディズニーの悪い影響を受けた絵本では、唇にキスを与えて、その力によって生き返るという形、つまりハリウッド流のラブストーリーに変えています。
さらに12番、「あの王妃はどういう運命をたどったか」。これも多くの絵本はカットしてしまっています。12番で黒い三角形にしたのは、黒丸よりは罪が少ないという意味ではなくて、私の目が三角になって、気持ちがとげとげしくなったことを意味しています。なんとその王妃が正体を表して魔女に変身し、魔法の箒にまたがって、王子の手にかかって谷底に墜落していくという、とんでもない波乱万丈の物語が付け加えられているからです。これもやはりディズニー映画の影響が、日本の絵本に現れたといえます。私は、ディズニーのファンでもありますが、ここはやはり許せない部分です。
ディズニーの影響が現れたもう一つは、小人の年齢です。ディズニーの7人の小人たちは、7人のうち6人までは髭を生やして、いかにも年寄りそうなんですが、1人だけやんちゃな青年が登場する。これが実は日本の絵本にしばしば見られる現象です。のみならず、イタリアで作られたしらゆきひめのポップアップのとてもきれいな本でも、7人の小人のうち1人だけ髭を生やしていません。日本の絵本だけの問題だけではないことがわかって、非常に興味深いです。
以上のことを総合してみますと、『しらゆきひめ』にまつわるさまざまな問題は、日本の子ども達の手にする昔話、あるいは絵物語の状況の象徴ではなかろうかという気がしてまいります。つまり昔話は、宝の山には見えるけれど、そこにはまがい物があったり、毒を含んだものがあるに違いないという点です。

7.昔話のルール

子どもに本を与えて、さあ静かに読んでおいでというよりは、誰かが読んであげる、聞かせてあげるというのはとても大事なことです。ぜひわれわれも可能な限り声に出して読む、あるいは聞く機会を作るべきだと申し上げます。
浜田広介の『グリム童話集』注9に『しらゆきひめ』があります。浜田広介は、日本の童話、或いは子ども達向けの童話運動を盛んに行っていた早稲田大学の童話会の主力メンバーでもありました。慶応出身であった私の父親注10が、やはり浜田広介を尊敬する小学校教師であり、同時に童話も書いていました。明らかに浜田広介のある種の薫陶を受けていたものでありました。それは単に目で読むのではなしに、口に出して読みやすく、聞きやすい日本語を目指すということでもあったわけです。
今あまりにも本と言うものを黙って読むことが多すぎます。たまに朗読会というと今度は、1対20とか、1対50とかいう、そうではなくてもっと小さいサークルで、1対1、1対2、1対5といった小さなサークルでもっと読む、聞くといいと思います。そこでこの浜田広介の、朗読すること、つまり読んで聞かせることを目的とした作家の『しらゆきひめ』の文章を一緒に読んでみることにしましょう。目が覚めるようなお気持ちになっていただけると思うんです。と言いますのは、半世紀以上も前の世代の童話作家たちの日本語の基本というのは七五調にありました。すると読み聞かせているうちに、私自身がそういうものが好きなものですから、思い出してしまうのが歌舞伎のせりふです。菊五郎か幸四郎の口真似をするととてもよく読めるんです。ちょっと実験をしてみましょう。
「むかし むかし、ゆきがそらから ちらちらと ふっていました。おうさまの ごてんのにわに ふっていました。りっぱなごてんでありました。(中略) いすにもたれて おきさきは、ぬいとりを つづけていました。きぬのきれじに、うつくしい はなのぬいとり、そのはなは、ばらのはなかも しれません。」
完全に七五調ですよね。まるでこう歌舞伎の舞台を聞くような感じになっていきます。しかし、ここには昔話が侵してはならないルール違反があります。一体どこでしょう。昔話には昔話なりの頑固としたルールがありました。
「きぬのきれじに、うつくしい はなのぬいとり、そのはなは、ばらのはなかも しれません。」
とあります。つまり昔話にない条件とは「かもしれない」という推量の言葉です。「多分」、「おそらく」「きっと」「かもしれない」「だろう」「ひょっとしたら」。要するに、すべての推量に関わる言葉がないところに、昔話の魅力があります。つまり「かもしれません」と言うものを排除した、自信に満ちた言葉の世界、それが昔話です。それは実は、アンデルセンが、『おやゆびひめ』を書く際にも、推量の言葉をなくしたからこそ、昔話らしい読み易さがあったわけです。そういったことも含めて、我々は単に絵が美しいからとか、活字が読みやすいからというだけの理由で、本を選ぶのではなしに、アンデルセンの場合には作者の心まで見通すような、もはや文学鑑賞のレベルに入ってしまっていますけれど、アンデルセンが何を伝えたかったんだろうかという視点をぜひ加えて、相対していただきたいと切に祈ります。

8.子どもの絵本を作る側の問題

こうして白黒の星取表にしてみると、今度は新しい別の問題が起こってきます。本1冊1冊の問題ではないという点です。ここでみなさんに、お買いになる時に白丸の多いほうを選ぶのが良いですよと言うつもりでいるかどうかというと、私は決してそう思いません。黒丸が多いから悪いとも決して言えません。
3番の「髪の毛の色」とあるところに、黒い三角形があります。これは非常に長いこと売られ続けた本の1冊で、多くの図書館に今でも残っている可能性があるものです。文章を読むと「黒い髪の毛」と書いてありますが、絵は金髪になっています。そういう例が3冊見つかっています。つまり文章を読まずに絵を描く絵描きがいる、文と絵を照らし合わせずに本を作る編集者がいる、と言うことの紛れもない現われです。子どもの本を作る側にもっと大きな問題があります。これは1冊1冊を比べることのできない読者に責任を押し付けるわけにいきません。
表2の1番から18番までが1980年頃の状況で、19番から25番まではそれから5年間に、新しく出たものを並べてみた。こういうものは新しいほど良いはずだ、進歩しているはずだという期待が全く裏切られて、かえって黒丸が増えてしまいました。しかも21番のごとく全部黒丸の絵本が出現しました。全部黒丸でもともかくストーリーはできてしまうということの証明です。その5年後、26番から30番までを見ますと、多少白丸の含有量が増えたのは、このころにグリム兄弟の生誕200年を迎えて、ややグリムの展覧会その他が催された年であったからです。だが、それが終われば元の木阿弥、33番から以後、もう調べる気もなくなったというのが実情です。
そして日本で親しまれているディズニー、これは明らかに『グリムのしらゆきひめ』というよりは、『ディズニーのしらゆきひめ』と言うべき別種の作品だと考えてよい内容のものになりました。ですから、ディズニーランドでグリムのしらゆきひめを経験した気になってはいられないぞということになります。
日本で一番古いしらゆきひめ、『雪姫』と言う題名で、国会図書館が所蔵していますが、ある意味で、この1908年の方が立派です。前半こそカットが多いけれど、後半で、ちゃんと時間の経過を表しています。それから小人たちも、若々しい小人ではなくて全部武士にしています。小さい武士、これはとても面白い着想です。なぜかといいますと、もしこれが若い男性であったら、しらゆきひめと7人の小人の恋物語が生れるはずです。でも小人たちは人間じゃありませんから、もともとしらゆきひめと恋をする関係に陥るはずがないわけです。

宮下啓三氏講演の写真

ですから武士とすることによって、女性に心を奪われないという表現をしたというのは、卓抜な着想でした。さらに、原作では「永い永いあいだ」となっていたものを、この明治時代の『雪姫』では、なんと10年間としているんです。どういう根拠があったか知りませんが、驚くべき、尊敬すべき直観です。それによってしらゆきひめの成長の時間、そして15歳では早すぎる、と言う日本人の適齢期の感覚をうまく表しています。こうしてみますと、古いからいけないとは決して言えないということにもなります。

では残る規準は、出版社の信用か。実は初めてこの実情を私がリストにしたときに、ある小さな出版社が、本にしようと言ってくれました。ところがそれから数日後に電話がかかり、大手出版社の名前を直接出すことによって、本の取次ぎ会社から自社の出版物の差し止めをくらう危険性があるから出版をあきらめるということでありました。それもそのはず、同一の出版社から様々なシリーズを出している。そのたびに同じのを出すわけにはいかないということで、目先を変えなければなりません。つまりわざわざ同じものを出すまいという意識が働いて、変えていくという不思議なことが行われている。これが日本の出版社の現状ではないか。しかも複数の出版社が出しますから、新機軸を入れなければいけない。奇妙な話ですが、わざわざ話を変えたり、或いは大きくしたり、小さくしたりという細工が行われていくことになりかねません。ということは、つまり日本の出版システムの問題と言うことにも深く関わってきて、これはもう図書館のレベルを超えていることであろうかと言うことです。ことは意外に深刻でありました。
しかし日本の絵本の話をするだけでは足りません。今ここに持ってきた2年前にウィーンで出版されたグリム童話の挿絵やヨーロッパ版の『しらゆきひめ』のビデオには、3滴の血が描かれています。これはなかなか勇気を要することでもあります。つまりなぜ3滴の血が必要かといいますと、実はさっきのアンデルセンの物語にぴったりくっつくのです。つまり昔話というものの本来の性格として、願い事をするときは必ず自分が犠牲を払うという鉄則があります。自分が痛みを覚えて、犠牲を払うことによって初めて祈りが通じる。だから3滴の血と言えども、自分が血を流して、痛みを覚えたからこそ、3つの条件をかなえた娘が誕生できたのです。
同じように『おやゆびひめ』の場合でも、本来は非合法な魔法使いに頼むと言う危険を侵してまで、子どもを手に入れたがゆえに、その子どもは奪われてしまう、しかも子ども自身が私生児としての苦しみをなめる、随分、不幸な不幸な物語であったわけです。実は『おやゆびひめ』と言うのは、まともに考えれば、切ない、また子どもに読ませるには早すぎる話ということになります。

9.もっと成長してからアンデルセンを

昔話というのは人が語ったものを聞き、聞いたものを語る、その間に聞き違えや言い違えもある、或いは聞く人が退屈そうだから少しここで話を変えてやろうといったこともあり得ます。だから、グリムのような昔話の場合には、まだ脚色が伴ってもやむをえないと思いますが、それをアンデルセンと混同しては、それこそアンデルセンがかわいそうだ。文学作品としての意味を認める人たちが育ってほしい。なにも無理をして絵本にしなくても、もっと成長してからでも良いではないか。ここには今度は、何歳向けというふうに子どもの年齢で輪切りにしてしまう日本の出版界の不幸という問題が浮かび上がってきます。ちなみに『しらゆきひめ』の話は日本では幼稚園レベルの絵本ということで、1回見てしまえば、もう知っているからいいよと言われてしまいますが、実はドイツでは小学校に入ってから、しかも1、2年生ではまだ早すぎるというレベルの物語と一般には思われています。何歳くらいの子どもたちに適切なのかということをもう1回見直す必要もあるでしょう。子ども向け物語集の定番ということだけで、シリーズ本が作られたりするという風潮そのものも変えていかなければいけないときにさしかかってはいないだろうかと思います。

注記

注1 『おやゆびひめ』(名作アニメ絵本シリーズ 6) 卯月泰子文 大野豊画 永岡書店 1984-1994
注2 『アンデルセンどうわ 一年生』(学年別・おはなし文庫) 宮脇紀雄編著 偕成社 1956-1996
注3 『おやゆびひめ』(アニメ世界の童話 3 よみきかせ3歳から) 矢部美智代文 東映動画絵 1995
注4 『おやゆびひめ』(せかいめいさくシリーズ よい子とママのアニメ絵本 16) 平田昭吾著 大野豊絵 ブティック社 1989-1996
注5 『グリム童話集』 金田鬼一訳 岩波書店 1954
注6 『しらゆきひめ』(名作アニメ絵本シリーズ) 卯月泰子文 藤田素子画 永岡書店 1984-1995
注7 『しらゆきひめ』(スーパーアニメファンタジー) 平田昭吾作 高橋信也、大野豊画 ポプラ社 1988-1995
注8 『白雪姫』(国際版・ディズニー名作童話) 森はるな文 講談社 1985-1996
注9 『グリム童話集』 浜田広介著 金の星社 1960
注10 宮下正美(1901-1982)教育者、口演童話家、作家。主な著作は『鏡のない国』『児童読物の選び方』『山をゆく歌』など、児童文学、科学読み物、教育書を戦前戦後に渡って執筆。
注の出版年の記載は、宮下氏の資料によります。

宮下啓三氏プロフィール
慶應義塾大学名誉教授、文学博士。スイス、オーストリアを含むドイツ文学及び演劇を専門とし、著作多数。主な著作として『グリム・森と古城の旅』(日本放送出版協会 1986年)、『700歳のスイス-アルプスの国の過去と今と未来』(筑摩書房 1991年)、『人間を彫る人生-エルンスト・バルラハの人と芸術』(国際文化出版社 1992年)、『日本アルプス-見立ての文化史』(みすず書房 1997年)、『メルヘンの履歴書-時空を超える物語の系譜』(慶應義塾大学出版会 1997年)がある。

*宮下氏の講演は都立多摩図書館がまとめたものです。

東京都子ども読書推進計画事業の一環として、都立図書館は、平成15年4月から都立図書館こどもページを開設しました。また、平成16年3月に、読書啓発パンフレット「子どもたちに物語の読み聞かせを」を作成しました。このパンフレットは、こどもページでもご覧になれます。

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