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堀留町は現在の日本橋堀留町1~2丁目あたりの地名で、2つの堀留川の堀留(堀の突き当り)に位置していました。江戸時代には水運を利用して、代表的な米問屋街として発達しました。
三井呉服店とは江戸の代表的呉服商、三井越後屋、現在の三越百貨店のことです。創始者の三井高利は、延宝元年(1673)、日本橋の本町に呉服店を開き、天和3年(1683)に,駿河町に移転して、「現金懸値なし」の新商法で急速に発展しました。今の中央区日本橋室町1~2丁目付近にあたり、現在は道を挟んで右に三井信託銀行、左に三越百貨店があります。
本町とは、江戸の大元の町、という意味です。徳川家康が江戸入府直後の天正18年(1590) 9月に、最初に作った町人地です。また、江戸城大手門の真東に位置し、諸街道の起点である日本橋に隣接していたところから、「本町」と名づけられました。土蔵造りの各種の問屋が店を連ねていました。
「大伝馬町」の町名は道中伝馬役の役屋敷が置かれたことに由来しています。伝馬役の町人が始めた三河木綿の仲買は、のち木綿問屋へと発展し、当町は木綿問屋街となりました。宝永2年(1705)には55軒の問屋があり、木綿店とも呼ばれました。現在の日本橋大伝馬町1~3丁目にあたります。
今川橋は、現在のJR神田駅にほど近い、千代田区鍛治町1丁目と中央区日本橋室町4丁目を結んだ位置にありました。橋の名前は、この地の名主、今川全右衛門の姓をとってつけたと言われています。江戸時代、この橋のたもとには瀬戸物屋が多く集まっていました。
下駄新道は現在のJR神田駅のあたりにありました。当時の鍛冶町2丁目の西の裏通りに木履製造業者がいたため、下駄新道と呼ばれていました。
中橋は日本橋と京橋との中間にあった堀割に架かっていた橋で、江戸歌舞伎の始祖、中村勘三郎(1597?-1658)が江戸で初めて芝居小屋を掛けた場所です。安永3年(1774)にはすでに埋め立てられ、中橋広小路という町になりました。盛り場として栄え、諸国の芸人がここを稼ぎ場として集まりました。現在の八重洲通りと中央通りが交差するあたりです。
新橋、汐留橋は外堀に架かっていた橋です。外堀は埋め立てられて暗渠となり、現在は「新橋」の文字を記した橋柱のみがわずかに残っています。汐留橋は新橋の東、木挽町7丁目と柴口新町の間に架かっていました。
金六町は中央区銀座八丁目のあたりにあった町、しがらき茶店はそこにあった待合茶屋で、現在の「信楽通り」の由来とされています。店先に茶釜を掛け、商人の寄合や、開帳の出迎などに多く利用されていました。この付近には待合茶屋が多くありましたが、「しがらき」は銀座の玉の井と並んで最も繁盛していた、と『中央区史』に書かれています。
「霞が関」という名称は、江戸時代以前、ここに「霞が関」と云う奥州街道の関があったことにちなんでいます。現在、霞が関の両側には外務省と総務省があります。そして、この『江戸名所図会』の書かれた時代、霞が関の両側には、福岡藩黒田家と広島藩浅野家の大名屋敷がありました。