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下駄新道は現在のJR神田駅のあたりにありました。当時の鍛冶町2丁目の西の裏通りに木履製造業者がいたため、下駄新道と呼ばれていました。
中橋は日本橋と京橋との中間にあった堀割に架かっていた橋で、江戸歌舞伎の始祖、中村勘三郎(1597?-1658)が江戸で初めて芝居小屋を掛けた場所です。安永3年(1774)にはすでに埋め立てられ、中橋広小路という町になりました。盛り場として栄え、諸国の芸人がここを稼ぎ場として集まりました。現在の八重洲通りと中央通りが交差するあたりです。
新橋、汐留橋は外堀に架かっていた橋です。外堀は埋め立てられて暗渠となり、現在は「新橋」の文字を記した橋柱のみがわずかに残っています。汐留橋は新橋の東、木挽町7丁目と柴口新町の間に架かっていました。
金六町は中央区銀座八丁目のあたりにあった町、しがらき茶店はそこにあった待合茶屋で、現在の「信楽通り」の由来とされています。店先に茶釜を掛け、商人の寄合や、開帳の出迎などに多く利用されていました。この付近には待合茶屋が多くありましたが、「しがらき」は銀座の玉の井と並んで最も繁盛していた、と『中央区史』に書かれています。
「霞が関」という名称は、江戸時代以前、ここに「霞が関」と云う奥州街道の関があったことにちなんでいます。現在、霞が関の両側には外務省と総務省があります。そして、この『江戸名所図会』の書かれた時代、霞が関の両側には、福岡藩黒田家と広島藩浅野家の大名屋敷がありました。
現在の、千代田区永田町2丁目にある日枝神社です。明治維新後、「日吉山王神社」(山王権現とも)から「日枝神社」へと名前が変わりました。徳川将軍家の産土神として地位が高く、将軍とその家族や諸大名の社参もさかんに行われました。祭礼は、天下祭りの一つとして、豪華を極めました。『江戸名所図会』の本文にも「江戸第一の大社」である、と書かれています。
目黒区の北部、現在の駒場周辺の絵図で、代々木野から続く広い原でした。ヒバリ、ウズラ、キジ、ウサギの類も多く、享保(1716~1736)以後は15万坪の幕府の御鷹場となっており、薬園も設けられていました。
新宿区西新宿二丁目にある十二所権現社は、応永年間(1394-1428)に、紀州熊野から、落ちぶれてこの地に流れ着いた鈴木九郎某によって建立されたのが始まりと伝えられています。熊野三山の12所の権現をすべて祀っていました。江戸時代、付近には茶店や料亭が建ち並び、江戸近郊の景勝地となりました。
井の頭池は、江戸時代に敷設された最初の水道である神田上水の水源です。弁財天は、天慶年間(938-946)に、源経基(?-961)が伝教大師作の弁財天女像をこの地に安置したのが始まりとされています。江戸時代には江戸っ子の信仰を集め、また、池周辺には水源涵養のため、多くの樹木が植えられていました。
現在の新宿区高田馬場3丁目から下落合のあたりの風景です。江戸時代には、螢の名所として有名で、当時盛んに出版された名所案内記にも掲載されています。夏は夕涼みに訪れる人が多くありました。