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高田という地名は慶長年間、越後高田少将の母、阿茶局(あちゃのつぼね)の遊覧地であったことにちなんでいます。『江戸名所図会』に、馬場は寛永13年(1636)に整備され弓馬調練の場所となった、と書かれています。穴(あな)八幡宮(高田八幡宮)の流鏑馬(やぶさめ)の神事の時の馬場であったところから高田馬場となったとされています。現在の新宿区西早稲田3丁目にありました。
馬市は、毎年12月中旬、2歳または3歳の南部駒(なんぶこま)100~150頭を南部藩から曳(ひ)いて来て、売買した市です。南部藩の馬宿(うまやど)をつとめる馬喰(ばくろう)3軒が藪の内にありました。その昔は府中六所宮(ふちゅうろくしょのみや)と浅草、麻布十番の3か所で開かれていましたが、享保年間(1716~1736)に府中六所宮の馬市が中止となり、その後は、この浅草薮の内と麻布十番の2か所だけで行われるようになりました。現在の台東区花川戸二丁目あたりに該当します。
上野山下は現在の上野駅周辺にあたり、1700年代末から1800年代初期にかけて発達した江戸の盛り場のひとつです。日本における最初の盛り場が両国界隈(かいわい)で、それに続いて出来たのが、浅草の浅草寺界隈と上野山下、江戸橋広小路などです。大道芸や見世物小屋が出来、年中群衆が集まり、大変なにぎわいを見せていました。
江戸随一の花街(はなまち)であった吉原は、元和3年(1617)に、それまで市中数か所に散在していた遊女屋を集めて、日本橋人形町附近に遊郭(ゆうかく)を作ったのが始まりと言われています。明暦(めいれき)大火後の明暦3年(1657)8月に、現在の台東区千束に移転しました。吉原の遊女たちは、徳川家康の江戸入城を祝う八朔(はっさく)(8月1日)の祝儀の日には、白無垢(むく)の着物を着て祝ったといわれています。
深川の三十三間堂は、京都の三十三間堂を模したもので、最初は浅草にありました。元禄11年に火災にあい、同14年に深川に移されました。明治5年(1872)に撤去されています。境内は弓術の練習、射的場(しゃてきば)として使用され、本堂では正保(しょうほう)3年(1646)から嘉永5年(1852)まで通し矢が行われました。通し矢の最高記録は、元禄時代の、石川備中守(びっちゅうのかみ)の臣で梶川勝蔵(かじかわかつぞう)の1万11本で、当時12歳の少年だったということです。明治5年(1872)に撤去されました。
現在の墨田区吾妻橋1~3丁目の辺りは、江戸期から昭和5年まで中之郷瓦町と呼ばれていました。瓦師の家が多く、これを生業とする人々が大勢住んでいたそうです。
堀留町は現在の日本橋堀留町1~2丁目あたりの地名で、2つの堀留川の堀留(堀の突き当り)に位置していました。江戸時代には水運を利用して、代表的な米問屋街として発達しました。
三井呉服店とは江戸の代表的呉服商、三井越後屋、現在の三越百貨店のことです。創始者の三井高利は、延宝元年(1673)、日本橋の本町に呉服店を開き、天和3年(1683)に,駿河町に移転して、「現金懸値なし」の新商法で急速に発展しました。今の中央区日本橋室町1~2丁目付近にあたり、現在は道を挟んで右に三井信託銀行、左に三越百貨店があります。
本町とは、江戸の大元の町、という意味です。徳川家康が江戸入府直後の天正18年(1590) 9月に、最初に作った町人地です。また、江戸城大手門の真東に位置し、諸街道の起点である日本橋に隣接していたところから、「本町」と名づけられました。土蔵造りの各種の問屋が店を連ねていました。
「大伝馬町」の町名は道中伝馬役の役屋敷が置かれたことに由来しています。伝馬役の町人が始めた三河木綿の仲買は、のち木綿問屋へと発展し、当町は木綿問屋街となりました。宝永2年(1705)には55軒の問屋があり、木綿店とも呼ばれました。現在の日本橋大伝馬町1~3丁目にあたります。