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江戸時代、羽田の東は青々とした海が広がり、朝日が房総(ぼうそう)の山にかかる様子や富士山の雪に多摩川の水が映えるさまなど、眺望(ちょうぼう)は最高にすばらしいものであった、と『江戸名所図会』に書かれています。羽田弁財天の本尊は江ノ島の弁財天と同じ弘法大師(こうぼうだいし)の作であるとされています。
赤坂にあった溜池は、慶長(けいちょう)11年(1606)に大名の浅野行長(あさのゆきなが)が山王の麓(ふもと)に造成した人工湖でした。東は虎の門、新橋、汐留(しおどめ)、西は赤坂御門まで続く広々とした大沼であったということです。神田上水や玉川上水がまだ敷設(ふせつ)されていなかった頃は、この池の水を上水として供給していました。早くも承応(じょうおう)年間(1652~1655)から埋め立てが始まり、明治8~9年頃から水を落として干潟(ひがた)とするなどの工事が進みました。明治43年に工事が終了、溜池は細流(さいりゅう)をとどめるだけとなりました。
江戸時代、下渋谷・下豊沢(しもとよさわ)という二つの村にまたがっていた野原で、百姓地の中に大名の下屋敷や旗本屋敷が点在していました。元禄12年(1699)の検地の頃に広尾と改称されたそうです。御鷹場でもありました。広尾原を流れていた渋谷川は、海に注ぐまでに、古川・新堀川・赤羽川・金杉川、と、地名に合わせて名前が変わっていきました。
江戸時代には武家屋敷と寺社地の多い土地柄でした。坂の上にある毘沙門堂(びしゃもんどう)は、毎月の寅(とら)の日に多くの参詣客が訪れ、植木市が立つなどして賑わいました。神楽坂という名前の起こりについては、市ヶ谷八幡の旅所(たびしょ)(祭礼のときの分祭所(ぶんさいしょ))があって、神楽が聞こえたため、あるいは高田穴八幡社の旅所があって神楽が奏されたため、ほか、諸説があります。
高田という地名は慶長年間、越後高田少将の母、阿茶局(あちゃのつぼね)の遊覧地であったことにちなんでいます。『江戸名所図会』に、馬場は寛永13年(1636)に整備され弓馬調練の場所となった、と書かれています。穴(あな)八幡宮(高田八幡宮)の流鏑馬(やぶさめ)の神事の時の馬場であったところから高田馬場となったとされています。現在の新宿区西早稲田3丁目にありました。
馬市は、毎年12月中旬、2歳または3歳の南部駒(なんぶこま)100~150頭を南部藩から曳(ひ)いて来て、売買した市です。南部藩の馬宿(うまやど)をつとめる馬喰(ばくろう)3軒が藪の内にありました。その昔は府中六所宮(ふちゅうろくしょのみや)と浅草、麻布十番の3か所で開かれていましたが、享保年間(1716~1736)に府中六所宮の馬市が中止となり、その後は、この浅草薮の内と麻布十番の2か所だけで行われるようになりました。現在の台東区花川戸二丁目あたりに該当します。
上野山下は現在の上野駅周辺にあたり、1700年代末から1800年代初期にかけて発達した江戸の盛り場のひとつです。日本における最初の盛り場が両国界隈(かいわい)で、それに続いて出来たのが、浅草の浅草寺界隈と上野山下、江戸橋広小路などです。大道芸や見世物小屋が出来、年中群衆が集まり、大変なにぎわいを見せていました。
江戸随一の花街(はなまち)であった吉原は、元和3年(1617)に、それまで市中数か所に散在していた遊女屋を集めて、日本橋人形町附近に遊郭(ゆうかく)を作ったのが始まりと言われています。明暦(めいれき)大火後の明暦3年(1657)8月に、現在の台東区千束に移転しました。吉原の遊女たちは、徳川家康の江戸入城を祝う八朔(はっさく)(8月1日)の祝儀の日には、白無垢(むく)の着物を着て祝ったといわれています。
深川の三十三間堂は、京都の三十三間堂を模したもので、最初は浅草にありました。元禄11年に火災にあい、同14年に深川に移されました。明治5年(1872)に撤去されています。境内は弓術の練習、射的場(しゃてきば)として使用され、本堂では正保(しょうほう)3年(1646)から嘉永5年(1852)まで通し矢が行われました。通し矢の最高記録は、元禄時代の、石川備中守(びっちゅうのかみ)の臣で梶川勝蔵(かじかわかつぞう)の1万11本で、当時12歳の少年だったということです。明治5年(1872)に撤去されました。
現在の墨田区吾妻橋1~3丁目の辺りは、江戸期から昭和5年まで中之郷瓦町と呼ばれていました。瓦師の家が多く、これを生業とする人々が大勢住んでいたそうです。