このデータベースは、本サイトで紹介する江戸・東京の資料を資料の種類とキーワードから検索閲覧することができます。
銀座の朝野新聞社を描いた錦絵です。朝野新聞は明治7年(1874)に前身の『公文通誌(こうぶんつうし)』を改題して発行された東京の日刊紙です。
浅草蔵前にあった絵草紙店「森本(もりもと)」(円泰堂(えんたいどう)森本順三郎(もりもとじゅんざぶろう))の店先です。絵草紙店では、浮世絵や絵入り本などの娯楽的な作品が出版・販売されていました。
「五衣色染分」は、「青」「赤」「黄」「白」「黒」の5色に、それぞれ美人を当てはめて描いたものです。「黄」には、浄瑠璃・歌舞伎の演目「恋娘昔八丈(こいむすめむかしはちじょう)」のお駒が描かれています。
この錦絵は、歌舞伎「菅原伝授手習鑑」の「車引(くるまびき)」の名場面です。平安時代に、策略により菅原道真(すがわらみちざね)が太宰府へ流罪(るざい)にされた史実を歌舞伎とし、ここでは、敵味方に分かれた3兄弟の心の葛藤を鮮やかに切り取っています。
「疱瘡絵」といわれる疱瘡除けの絵です。疱瘡絵は、疱瘡にかかった子供へのお見舞いに贈られ、回復後は焼き捨てたり川に流したりしました。
江戸時代、麻疹の流行時に江戸で数多く刊行された「はしか絵」と呼ばれる錦絵です。麻疹の禁忌や薬、麻疹を軽くするまじないなど、さまざまな情報が盛り込まれました。この絵は、麻疹神退治を擬人化したもので、被害にあった職業の人々が麻疹神を懲らしめています。
安政5年(1858)のコレラの流行時の江戸の様子を記録したものです。コレラは死亡率が高く、感染すると発病三日以内に死亡するため、「三日コロリ」と呼ばれました。この時の江戸での死者は、およそ三万人と言われ、火葬場は棺桶であふれました。
新川とは、現在の中央区新川一丁目のほぼ中央部を、日本橋川と並行して流れていた、亀島川(かめじまがわ)の支流の運河です。河岸(かし)には下り酒(くだりざけ)(関西で造られた上等な酒)を扱う多くの酒問屋が集まっていました。毎年11月に樽廻船(たるかいせん)で江戸に到着し、新酒の入荷は江戸の年中行事の一つでもありました。新川は昭和23年に埋め立てられています。
寺子屋での教育方法は現在とは大きく異なり、読み書きを教えることが基本です。その教科書には農民の子どもは農民に必要な知識を、商人の子どもは商人としての必要な知識を学ぶためのものを使います。寺子屋等で使われた教科書を総称して「往来物」と言います。
江戸の名所の判じ物です。江戸時代には文字や絵に意味を隠し、それを当てさせるという判じ物が数多く刊行されましたが、地名だけでなく、枠外の題名や版元までもが判じ物になっています。