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柴崎町にあった八幡宮は建長4年(1252)に勧請され、本地仏として弘法大師が作った阿弥陀仏が安置されていたといわれる由緒ある神社でした。
一宮大明神とは現在の多摩市一ノ宮にある小野神社のことです。その起源は古く、8世紀中頃には創建されたと伝えられ、武蔵国にあった神社の中で最も格式の高い「一宮(いちのみや)」として国衙(こくが・政務を司る役所)の近くに建立されました。
元弘3年(1333)、新田義貞が鎌倉幕府を攻めた「関戸の戦い」と呼ばれる戦いにおいて、このあたり一帯は戦場となり、義貞軍が北条泰家軍を敗走させた後、本陣をここに置いたと伝えられています。これが「関戸天守台」という名前の由来で、現在の多摩市桜ヶ丘にある金比羅宮(琴平社)あたりが「天守台」と呼ばれ、一帯の山を「城山」とも呼んでいます。多摩川に面し、武蔵野台地を一望できる景勝の地でもありました。
奈良時代には多摩川沿岸地域で生産された布が租税の一つ「調」として朝廷へ納められていました。これが調布という地名の由来となったともいわれています。
青渭社とは調布市深大寺にある青渭神社のことで、古くから深大寺の総鎮守として信仰を集めていました。境内にあった大池の湧水が青波のように見えたことから青波天神社とも称されました。
深大寺(じんだいじ)は天平5年(733)に創建された古い歴史を持つ寺院です。江戸時代、深大寺の名を広めたのが明和2年(1765)と文化13年(1816)に両国の回向院で行われた出開帳です。江戸市中の人々が深大寺の元三大師(がんさんだいし)像の巨大さに驚愕したと言われています。
深大寺周辺の土地は米作りに向かなかったこともあり、蕎麦を作り、米の代わりに蕎麦粉を寺に納め、寺では蕎麦を打って来客をもてなしたのが、深大寺蕎麦の始まりと伝えられています。
高尾山は、もとは修験道の霊場であり、高尾山薬王院有喜寺の寺域でした。薬王院は天平16年(744)に、聖武天皇の勅令により東国鎮守の祈願寺として、行基により開山された寺院で、江戸時代には紀州徳川家から厚い信仰を集めたそうです。
「久米川の戦い」とは、久米川(現・東村山市)において、元弘3年(1333)に起こった新田義貞と鎌倉幕府方との戦いです。新田軍が本陣を置いたのは埼玉県と東京都の境に位置する丘陵・八国山(はちこくやま)の頂上です。新田義貞の鎌倉攻めの古跡として名所となりました。
松蓮寺は天平年間(729~749)に建立されたといわれ、鎌倉時代に廃寺となった後、享保年間(1716~1735)に小田原城主・大久保家によって徳川家康の長男・信康追悼のために再建されました。その時に整備された庭園が百草園です。