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青渭社とは調布市深大寺にある青渭神社のことで、古くから深大寺の総鎮守として信仰を集めていました。境内にあった大池の湧水が青波のように見えたことから青波天神社とも称されました。
深大寺(じんだいじ)は天平5年(733)に創建された古い歴史を持つ寺院です。江戸時代、深大寺の名を広めたのが明和2年(1765)と文化13年(1816)に両国の回向院で行われた出開帳です。江戸市中の人々が深大寺の元三大師(がんさんだいし)像の巨大さに驚愕したと言われています。
深大寺周辺の土地は米作りに向かなかったこともあり、蕎麦を作り、米の代わりに蕎麦粉を寺に納め、寺では蕎麦を打って来客をもてなしたのが、深大寺蕎麦の始まりと伝えられています。
高尾山は、もとは修験道の霊場であり、高尾山薬王院有喜寺の寺域でした。薬王院は天平16年(744)に、聖武天皇の勅令により東国鎮守の祈願寺として、行基により開山された寺院で、江戸時代には紀州徳川家から厚い信仰を集めたそうです。
「久米川の戦い」とは、久米川(現・東村山市)において、元弘3年(1333)に起こった新田義貞と鎌倉幕府方との戦いです。新田軍が本陣を置いたのは埼玉県と東京都の境に位置する丘陵・八国山(はちこくやま)の頂上です。新田義貞の鎌倉攻めの古跡として名所となりました。
松蓮寺は天平年間(729~749)に建立されたといわれ、鎌倉時代に廃寺となった後、享保年間(1716~1735)に小田原城主・大久保家によって徳川家康の長男・信康追悼のために再建されました。その時に整備された庭園が百草園です。
文永8年(1271)に建立されたとされる板碑(いたび)が日野市南平の果樹園の中に残っています。これは平惟盛の墓と伝えられ、この地は住んでいた平資綱という武士が惟盛の菩堤を弔うために建てたとされています。
高幡山明王院金剛寺の創建は大宝年間(701~704)以前、または奈良時代に行基が開基したとも伝えられています。江戸時代には関東十一檀林の一つに数えられ、火防の不動尊として広く庶民の信仰を集めました。
日野の渡しは甲州道中の幕府公認の渡し場で、貞享年間(1684~1687)に現在の場所に落ち着いたといわれています。
泉龍寺は奈良の東大寺を開山した良弁(ろうべん)が天平神護元年(765)、この地において雨乞いをした際に創建した寺院がそのはじまりと伝えられています。戦国時代に衰退しますが、江戸時代になると徳川家康に仕え、入間村(調布市)と和泉村(狛江市)の地頭を務めた石谷清定によって再興されました。