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千賀崎(乳ヶ崎)は大島最北端にある岬です。岬の下の海は潮の流れが速く、格好の釣り場でした。
大島と新島の中間に位置する円錐型の島が利島(としま)です。利島の人々は伊豆七島のなかでは珍しく漁業よりも農業を生業としており、島の産物には椿油や薪、干魚がありました。
式根島の南に位置する神津島は、神様が伊豆の島々を作る際に神々を集めて相談をする拠点としたと伝えられる島で、そのため昔は「神集島」と書いたともいわれています。
神津島は良港に恵まれ、古くから漁業の盛んな島でした。伊豆七島ではかつお漁が盛んでしたが、釣り上げたかつおは鮮度を保つために神津島で水揚げされ、ここでかつおぶしに加工されました。島にある神社では「かつお釣り」という神事があったほどです。
神津島の中央に位置する天上山は神々が集まったとされる山で、神津島で最も高い山です。この山の北側にあるのが櫛ヶ峰で、ここからは伊豆七島を見渡すことができました。
現在の神津島港のある場所から北に行ったところにある「千両池」を描いたものと思われます。千両池は灯台の下にあるひょうたん形をした池の形をした小さな入江のことで、昔、千両船(北前船)を引き込んだ場所であったためその名が付けられたとも言われています。
三本岳は三宅島の西南西に位置する沖の群礁です。正しくは大野原島といい、俗称として「三本岳」「三本嶽」と呼ばれています。名前の由来は三宅島から見ると3つの突岩が切り立って見えることからきています。
三宅島周辺の海でトビウオ漁を行っている様子を描いたものです。
江戸時代初期、御蔵島は三宅島の属島として、三宅島の支配下に置かれていました。絵は御蔵島周辺の荒れた海での弁財船を描いたものです。
八丈島には、複雑な形状をした東山と、富士山のように形の整った西山という2つの山があります。西山は「八丈富士」とも呼ばれ、伊豆諸島で一番高い山ですが、慶長10年(1605)の噴火では麓の村に大きな被害を与えたことが記録に残っています。