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「爺々が茶屋」とは、三代将軍・家光が鷹狩を行った際に立ち寄った茶屋の名称です。 現在の目黒区中目黒から三田あたりに茶屋坂という名称の坂が残っており、ここに「爺々茶屋」があったようです。この茶屋の西には豊かな田園が広がり、富士山を望むことができたことから名所となりました。
目黒区目黒1丁目にある東京都教育研究所の前庭にあたります。千代が池の名は、南北朝時代、新田義興の侍女・千代がこの池に身を投げたという伝説に由来しています。
目黒川に架けられた太鼓橋は、江戸八丁堀の商人達が私財を出し合い、宝暦14年(1764)から6年の歳月をかけて完成させた石造りの橋です。その形が円形であったため、また太鼓の形に似ていたため太鼓橋といわれたそうです。
目黒不動を訪れた参詣客の土産物として有名なのが目黒飴です。門前には左右に商店が並び、粟餅や飴、餅花を売っていました。
威光寺は稲城市矢野口にある真言宗の寺院で、同じく稲城市坂浜にある高勝寺の末寺です。本尊は大日如来の坐像でした。
穴澤神社は少彦名大神(すくなひこなのおおかみ)を主祭神とした神社で、元禄7年(1694)に社殿を改修した際、菅原道真を合祀し、穴澤天神社となったとされています。
御嶽山は中世以降、山岳信仰の霊場として多くの参詣客を集めました。山頂には天平8年(736)に行基がこの地にお堂を建て、蔵王権現を祀ったことに由来する武蔵御岳神社が鎮座しています。
谷保天神社(やほてんじんのやしろ)を下ったところに清水立場(しみずのたてば)という休憩所がありました。このあたりは谷保随一の湧水地で、夏になるとそばやそうめんを清水にひたして、炎天下の甲州街道を旅する人々をもてなしたといわれています。
国立は国分寺と立川の間にあったことから名づけられた地名ですが、江戸時代、このあたりは谷保(やほ、やぼ)と呼ばれていました。谷保天神社は東日本最古の天満宮といわれ、亀戸天神社・湯島天満宮と合わせて関東三大天神とも呼ばれています。たいそう野暮な人を「野暮天」と言いますが、この言葉の由来となった神社としても有名です。
小金井桜の名で知られる玉川上水の桜並木は、武蔵野新田の開発が行われた元文2年(1737)頃、吉野(奈良県)や桜川(茨城県)から山桜の名品種を取り寄せ、小金井橋を中心とする玉川上水堤の両岸約6kmに植えたものです。18世紀の終わり頃から江戸近郊有数の花見の名所となりました。