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時は元禄14年(1701)3月14日。松之廊下において赤穂(あこう)藩主浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が高家(こうけ)の吉良上野介(きらこうずけのすけ)に斬りかかりました。
白書院の平面図です。白書院は、上段・下段・帝鑑之間(ていかんのま)・連歌之間(れんがのま)・納戸構(なんどがまえ)の5つの部屋で構成され、入側(いりがわ)を含めると広さは300畳近くありました。
蹴鞠(けまり)は、「鞠足(まりあし)」と呼ばれる8名の競技者が、革製の鞠を地面に落とさないように蹴り上げ、その回数や動作の優美さを競う遊びです。
黒書院の内部平面図です。建坪は101坪5合(約330㎡)と書かれています。図には天井、壁、欄間(らんま)、建具の仕様などが詳細に記されていますが、大広間や白書院に比べ、意匠は落ち着いた雰囲気になっています。
江戸幕府では鏡開きを「具足祝(ぐそくいわい)」と称していました。
伊豆七島では古来よりカメの捕獲を行っており、アオウミガメを潜水で捕獲するという独特の技術も持っていました。アオウミガメの別称が正覚坊(しょうがくぼう)です。
玩具研究家として知られる清水晴風(しみずせいふう)が江戸から明治時代の行商人の姿を描いたもので、約180の職人姿が描かれています。
江戸の有名料亭を描いた30枚揃の内の1枚です。白山傾城ヶ窪は又鶏声ヶ窪とも書き、日本橋から巣鴨を経て板橋宿に至る中山道沿いにあり、近くには白山大権現がありました。
開業後の鉄道蒸気車と海上に浮かぶ各国の蒸気船が見え、横浜らしい文明開化の情景が描かれています。画面右側の蒸気車の車両には「中等」という文字が書かれており、車両に等級があったことがわかります。
銀座の朝野新聞社を描いた錦絵です。朝野新聞は明治7年(1874)に前身の『公文通誌(こうぶんつうし)』を改題して発行された東京の日刊紙です。