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谷保天神社(やほてんじんのやしろ)を下ったところに清水立場(しみずのたてば)という休憩所がありました。このあたりは谷保随一の湧水地で、夏になるとそばやそうめんを清水にひたして、炎天下の甲州街道を旅する人々をもてなしたといわれています。
国立は国分寺と立川の間にあったことから名づけられた地名ですが、江戸時代、このあたりは谷保(やほ、やぼ)と呼ばれていました。谷保天神社は東日本最古の天満宮といわれ、亀戸天神社・湯島天満宮と合わせて関東三大天神とも呼ばれています。たいそう野暮な人を「野暮天」と言いますが、この言葉の由来となった神社としても有名です。
小金井桜の名で知られる玉川上水の桜並木は、武蔵野新田の開発が行われた元文2年(1737)頃、吉野(奈良県)や桜川(茨城県)から山桜の名品種を取り寄せ、小金井橋を中心とする玉川上水堤の両岸約6kmに植えたものです。18世紀の終わり頃から江戸近郊有数の花見の名所となりました。
小金井の桜は最盛期にはその数およそ1万本を数え、立春より54、5日目に開き始めて、60日目に満開になるといわれました。なかでも小金井橋のあたり玉川上水の両岸に植えられた桜が一番美しかったようです。
小金井橋は玉川上水に架けられた橋です。近くに武蔵七井の一つ・名水黄金井があったことからその名前がつけられたといわれます。18世紀の終わりには小金井は桜の名所となり、多くの人々がやって来るようになりました。木橋では損傷が激しく架け替えも頻繁になるため、その費用調達に苦心した住民たちは、安政3年(1856)に資金を持ち寄って念願の石橋を建造しました。
恋が窪は古来、東北・北陸と京都・鎌倉を結ぶ街道の宿駅として栄えました。鎌倉時代初期の武将である畠山重忠に寵愛された遊女・夙妻(あさづま)太夫が重忠戦死という知らせを聞いて悲しみの余り身を投げた場所がこの地にあった姿見の池です。
医王山国分寺は最勝院と号する真言宗の寺院です。もとは天平年間(729~749)、奈良の東大寺の大仏を建立させたことで知られる聖武天皇の勅願で創建された武蔵国の国分寺でした。元弘3年(1333)新田義貞の鎌倉攻めによって焼失した後に再建されました。
江戸時代、甲州街道府中宿の2kmほど北に大伽藍の跡がありました。礎石のほかに古瓦も残っており、瓦には武蔵国の郡名が記されていました。江戸時代後期は地誌がブームになったこともあり、このような旧跡の調査も各地で行われていました。
国分寺村にあったとされる炭窯とそこで働く人々の様子を描いたものです。八王子と並んで国分寺は炭作りの盛んな土地でした。
立川市柴崎町にある玄武山普済寺は臨済宗の名刹として有名な寺院です。江戸時代は多摩川を挟んで多摩丘陵や丹沢の山々、さらには富士山をも一望することができました。