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小金井橋は玉川上水に架けられた橋です。近くに武蔵七井の一つ・名水黄金井があったことからその名前がつけられたといわれます。18世紀の終わりには小金井は桜の名所となり、多くの人々がやって来るようになりました。木橋では損傷が激しく架け替えも頻繁になるため、その費用調達に苦心した住民たちは、安政3年(1856)に資金を持ち寄って念願の石橋を建造しました。
恋が窪は古来、東北・北陸と京都・鎌倉を結ぶ街道の宿駅として栄えました。鎌倉時代初期の武将である畠山重忠に寵愛された遊女・夙妻(あさづま)太夫が重忠戦死という知らせを聞いて悲しみの余り身を投げた場所がこの地にあった姿見の池です。
医王山国分寺は最勝院と号する真言宗の寺院です。もとは天平年間(729~749)、奈良の東大寺の大仏を建立させたことで知られる聖武天皇の勅願で創建された武蔵国の国分寺でした。元弘3年(1333)新田義貞の鎌倉攻めによって焼失した後に再建されました。
江戸時代、甲州街道府中宿の2kmほど北に大伽藍の跡がありました。礎石のほかに古瓦も残っており、瓦には武蔵国の郡名が記されていました。江戸時代後期は地誌がブームになったこともあり、このような旧跡の調査も各地で行われていました。
国分寺村にあったとされる炭窯とそこで働く人々の様子を描いたものです。八王子と並んで国分寺は炭作りの盛んな土地でした。
立川市柴崎町にある玄武山普済寺は臨済宗の名刹として有名な寺院です。江戸時代は多摩川を挟んで多摩丘陵や丹沢の山々、さらには富士山をも一望することができました。
柴崎町にあった八幡宮は建長4年(1252)に勧請され、本地仏として弘法大師が作った阿弥陀仏が安置されていたといわれる由緒ある神社でした。
一宮大明神とは現在の多摩市一ノ宮にある小野神社のことです。その起源は古く、8世紀中頃には創建されたと伝えられ、武蔵国にあった神社の中で最も格式の高い「一宮(いちのみや)」として国衙(こくが・政務を司る役所)の近くに建立されました。
元弘3年(1333)、新田義貞が鎌倉幕府を攻めた「関戸の戦い」と呼ばれる戦いにおいて、このあたり一帯は戦場となり、義貞軍が北条泰家軍を敗走させた後、本陣をここに置いたと伝えられています。これが「関戸天守台」という名前の由来で、現在の多摩市桜ヶ丘にある金比羅宮(琴平社)あたりが「天守台」と呼ばれ、一帯の山を「城山」とも呼んでいます。多摩川に面し、武蔵野台地を一望できる景勝の地でもありました。
奈良時代には多摩川沿岸地域で生産された布が租税の一つ「調」として朝廷へ納められていました。これが調布という地名の由来となったともいわれています。