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十軒店(じっけんだな)では春の雛祭りの前には雛市(ひないち)が、初夏の端午の節句の前には五月人形の市が立ち、大変な賑わいを見せていました。雛市は尾張町(おわりちょう)、浅草、池之端(いけのはた)、麹町(こうじまち)、駒込などにもありましたが、十軒店には及ばなかった、と『江戸名所図会」に書かれています。現在の日本橋室町(にほんばしむろまち)3丁目あたりの中央通りの両側にあった町です。
馬喰町(ばくろうちょう)は、古くは博労町と書かれ、馬市(うまいち)が立つところでした。一丁目から四丁目まであり、三丁目北側には、“関ヶ原の戦い(慶長5年(1600))”の前に馬揃(うまぞろ)えがなされたという初音(はつね)の馬場(追回しの馬場ともいう)がありました。江戸中期以降は旅籠(はたご)も集中し、馬喰町を起点とした江戸めぐりの案内書なども発行されています。現在の日本橋馬喰町1丁目にありました。
江戸時代後期、江戸で作られた浮世絵は色彩が豊かで「錦絵」と呼ばれ、江戸土産(えどみやげ)として人気がありました。売り出したのは地本問屋(じほんどんや)または絵草紙屋(えぞうしや)と呼ばれる、江戸独自の出版物を扱う版元で、江戸文化の発展に大きく貢献しています。この絵は、通油町(とおりあぶらちょう)で店を開いていた鶴屋喜右衛門(つるやきえもん)の店先です。京都の出店(でみせ)で、書物問屋(しょもつどんや)と地本問屋を兼ねていました。
四日市町とは、古くは日本橋と江戸橋の間、川より南の大路をいい、毎月四の日に市がたつ町でした。明暦(めいれき)の大火(1657年)の後、町屋(まちや)を移転させ、川沿いに二町半(約272.5m)にわたり石を積んで、高さ4間(約7.2~7.8m)の土手蔵(どてぐら)を築いて防火壁としました。その後、この地を元四日市町(もとよっかいちちょう)、川沿いを四日市河岸(よっかいちがし)と呼び、様々な市が立つなど、繁盛(はんじょう)の地となりました。
新川とは、現在の中央区新川一丁目のほぼ中央部を、日本橋川と並行して流れていた、亀島川(かめじまがわ)の支流の運河です。河岸(かし)には下り酒(くだりざけ)(関西で造られた上等な酒)を扱う多くの酒問屋が集まっていました。毎年11月に樽廻船(たるかいせん)で江戸に到着し、新酒の入荷は江戸の年中行事の一つでもありました。新川は昭和23年に埋め立てられています。
現在の中央区銀座五丁目のあたりです。享保(きょうほう)9年(1724)まで、今治藩主(いまばりはんしゅ)松平采女正定基(まつだいらうねめのしょうさだもと)の屋敷があったことにちなみ、つけられた名前です。大火により屋敷が麹町(こうじまち)に移った後、空き地となっていたところに馬場がつくられ、周囲は歓楽地として発展しました。小屋掛け、葭簀(よしず)張りの小屋、講釈師・浄瑠璃・水茶屋(みずぢゃや)・楊弓場(ようきゅうば)などが軒をならべる繁盛ぶりであったということです。
金地院は、僧崇伝(すうでん)により元和(げんな)5年(1619)に江戸城北の丸に建立され、寛永20年(1639)この地に移転されたといわれています。この寺院の境内であった所に現在は東京タワーが立っています。創建者の崇伝は、京都南禅寺金地院(きょうとなんぜんじこんちいん)と、この金地院を兼務し、上野の寛永寺を創建した天海大僧正(てんかいだいそうじょう)とともに、江戸幕府の黒衣(こくい)の宰相(さいしょう)といわれています。
江戸市中で許可された車両は原則として牛車(ぎゅうしゃ)と大八車(だいはちぐるま)のみで、牛車は京都、駿府、江戸、仙台のみで使用が許可されていました。江戸の牛車は、寛永11年(1634)、増上寺安国殿(ぞうじょうじあんこくでん)の普請(ふしん)にあたり、京都から牛持ち人足を呼んだのが始まりです。高輪あたりには牛を飼う家が多くあり、その数は一千頭以上であった、とされています。
海晏寺(かいあんじ)は、江戸時代、江戸随一の紅葉の名所として有名でした。晩秋の頃は庭一面錦繍(きんしゅう)を晒(さら)したようで、ここを訪れて紅葉の美しさに酔わない人はいなかった、ということです。海?寺の本尊(ほんぞん)は、品川沖でかかったサメの腹から出た観音像と伝えられ、品川区「鮫洲(さめず)」の地名の由来となっています。
大田区南六郷と神奈川県川崎市川崎区とを結んでいた多摩川の渡しで、現在の六郷(ろくごう)橋(第一京浜)のやや下流にありました。多摩川には橋が架けられ、しばしば改築されていましたが、破損流出がはなはだしく、元禄(げんろく)元年7月に洪水により橋が落ちてからは再建されず、享保年間(1716~1736)に渡し場となり、明治に至っています。『江戸名所図会』には「江戸の三大橋といふは、両国(りょうごく)橋・千住(せんじゅ)大橋・六郷橋なりといへり」と書かれています。