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四日市町とは、古くは日本橋と江戸橋の間、川より南の大路をいい、毎月四の日に市がたつ町でした。明暦(めいれき)の大火(1657年)の後、町屋(まちや)を移転させ、川沿いに二町半(約272.5m)にわたり石を積んで、高さ4間(約7.2~7.8m)の土手蔵(どてぐら)を築いて防火壁としました。その後、この地を元四日市町(もとよっかいちちょう)、川沿いを四日市河岸(よっかいちがし)と呼び、様々な市が立つなど、繁盛(はんじょう)の地となりました。
現在の中央区銀座五丁目のあたりです。享保(きょうほう)9年(1724)まで、今治藩主(いまばりはんしゅ)松平采女正定基(まつだいらうねめのしょうさだもと)の屋敷があったことにちなみ、つけられた名前です。大火により屋敷が麹町(こうじまち)に移った後、空き地となっていたところに馬場がつくられ、周囲は歓楽地として発展しました。小屋掛け、葭簀(よしず)張りの小屋、講釈師・浄瑠璃・水茶屋(みずぢゃや)・楊弓場(ようきゅうば)などが軒をならべる繁盛ぶりであったということです。
金地院は、僧崇伝(すうでん)により元和(げんな)5年(1619)に江戸城北の丸に建立され、寛永20年(1639)この地に移転されたといわれています。この寺院の境内であった所に現在は東京タワーが立っています。創建者の崇伝は、京都南禅寺金地院(きょうとなんぜんじこんちいん)と、この金地院を兼務し、上野の寛永寺を創建した天海大僧正(てんかいだいそうじょう)とともに、江戸幕府の黒衣(こくい)の宰相(さいしょう)といわれています。
江戸市中で許可された車両は原則として牛車(ぎゅうしゃ)と大八車(だいはちぐるま)のみで、牛車は京都、駿府、江戸、仙台のみで使用が許可されていました。江戸の牛車は、寛永11年(1634)、増上寺安国殿(ぞうじょうじあんこくでん)の普請(ふしん)にあたり、京都から牛持ち人足を呼んだのが始まりです。高輪あたりには牛を飼う家が多くあり、その数は一千頭以上であった、とされています。
海晏寺(かいあんじ)は、江戸時代、江戸随一の紅葉の名所として有名でした。晩秋の頃は庭一面錦繍(きんしゅう)を晒(さら)したようで、ここを訪れて紅葉の美しさに酔わない人はいなかった、ということです。海?寺の本尊(ほんぞん)は、品川沖でかかったサメの腹から出た観音像と伝えられ、品川区「鮫洲(さめず)」の地名の由来となっています。
大田区南六郷と神奈川県川崎市川崎区とを結んでいた多摩川の渡しで、現在の六郷(ろくごう)橋(第一京浜)のやや下流にありました。多摩川には橋が架けられ、しばしば改築されていましたが、破損流出がはなはだしく、元禄(げんろく)元年7月に洪水により橋が落ちてからは再建されず、享保年間(1716~1736)に渡し場となり、明治に至っています。『江戸名所図会』には「江戸の三大橋といふは、両国(りょうごく)橋・千住(せんじゅ)大橋・六郷橋なりといへり」と書かれています。
江戸時代、羽田の東は青々とした海が広がり、朝日が房総(ぼうそう)の山にかかる様子や富士山の雪に多摩川の水が映えるさまなど、眺望(ちょうぼう)は最高にすばらしいものであった、と『江戸名所図会』に書かれています。羽田弁財天の本尊は江ノ島の弁財天と同じ弘法大師(こうぼうだいし)の作であるとされています。
赤坂にあった溜池は、慶長(けいちょう)11年(1606)に大名の浅野行長(あさのゆきなが)が山王の麓(ふもと)に造成した人工湖でした。東は虎の門、新橋、汐留(しおどめ)、西は赤坂御門まで続く広々とした大沼であったということです。神田上水や玉川上水がまだ敷設(ふせつ)されていなかった頃は、この池の水を上水として供給していました。早くも承応(じょうおう)年間(1652~1655)から埋め立てが始まり、明治8~9年頃から水を落として干潟(ひがた)とするなどの工事が進みました。明治43年に工事が終了、溜池は細流(さいりゅう)をとどめるだけとなりました。
江戸時代、下渋谷・下豊沢(しもとよさわ)という二つの村にまたがっていた野原で、百姓地の中に大名の下屋敷や旗本屋敷が点在していました。元禄12年(1699)の検地の頃に広尾と改称されたそうです。御鷹場でもありました。広尾原を流れていた渋谷川は、海に注ぐまでに、古川・新堀川・赤羽川・金杉川、と、地名に合わせて名前が変わっていきました。
江戸時代には武家屋敷と寺社地の多い土地柄でした。坂の上にある毘沙門堂(びしゃもんどう)は、毎月の寅(とら)の日に多くの参詣客が訪れ、植木市が立つなどして賑わいました。神楽坂という名前の起こりについては、市ヶ谷八幡の旅所(たびしょ)(祭礼のときの分祭所(ぶんさいしょ))があって、神楽が聞こえたため、あるいは高田穴八幡社の旅所があって神楽が奏されたため、ほか、諸説があります。