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現在の、千代田区外神田二丁目にある神田神社です。明治維新後、「神田明神」から「神田神社」へと名称が変わりました。江戸の総鎮守として祀られ、祭礼は山王神社(権現)と並び、天下祭りの一つとして豪華に繰り広げられました。もとは神田橋近くにあったものが、江戸城の拡張に伴って駿河台に移され、さらに湯島に移されて現在に至っています。
上野池之端仲町で、万病に効くといわれた「錦袋円」を売る、勧学屋の店先が描かれています。延宝3年(1675)に、僧侶の勧学坊了翁(1630-1707)が開き、売上金は、一切経の購入、文庫経営にあてられました。「錦袋円」は毒消しと気付けの薬として評判がよく、江戸土産としても人気がありました。
王子稲荷神社は、関東にある稲荷の総社です。この稲荷のそばに衣裳榎(または装束榎とも)といわれる大きな榎があり、毎年12月晦日の夜は、関八州の狐が官位を決めるため、ここにあつまって、衣装を改めてから稲荷社に参詣した、といわれています。その行列の時に燃える狐火により、人々は翌年の吉凶を占ったといわれています。現在の北区岸町1丁目にあります。
浅草寺の境内には、楊枝を売る店が多くありました。『江戸名所図会』の本文によると、本店は「柳屋」でしたが、次第に「柳屋」を名乗る店が多くなり、この地の名産となった、と書かれています。絵の上部に楊枝の5つの効能を載せています。
台東区浅草にある金竜山浅草寺は、浅草観音として親しまれている聖観世音菩薩を本尊として祀っています。推古36年(628)3月18日の朝、宮戸川(隅田川の別名)に漁に出た3人の漁師が降ろした網に観世音菩薩がかかり、それを祀ったのが起源とされています。御堂はその後、久しく壊れたままでしたが、大化元年(645)、勝海上人が再営しました。その際、お告げによって秘仏とされ、人々は拝むことが出来なくなった、ということです。
烏亭焉馬編『喜美談語(きみだんご)』の後編に当る、「咄の会」の咄本第二集で、寛政8年4月初めより10月末までの間に、焉馬が披露した落し噺中より47名51話を選び、出版したものです。
文化5年4月開催の青陽舎寿暁(せいようしゃじゅぎょう)の会より、文化14年10月に催された朝寝坊夢羅久(あさねぼうむらく)の三度目の会までの八度の「咄の会」の案内の摺物を戯作者、式亭三馬が貼交帖に仕立てたものです。
粋狂連と興笑連による三題噺の会の成果をまとめた出版物です。表紙や序文等には、粋狂連と興笑連の紋があしらわれています。本書は、幕末の三題噺全盛期につくられました。
書名の由来は、巻頭の口上に「『百人一首戯講釈』(ひゃくにんいっしゅおどけこうしゃく)、『小倉山曲輪の大詰』(おぐらやまくるわのおおづめ)から想を得て補ったことから」と記されています。
落語の三題噺から歌舞伎に書下ろされた、通称、「髪結藤次」という演目の錦絵です。