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現在の、千代田区永田町2丁目にある日枝神社です。明治維新後、「日吉山王神社」(山王権現とも)から「日枝神社」へと名前が変わりました。徳川将軍家の産土神として地位が高く、将軍とその家族や諸大名の社参もさかんに行われました。祭礼は、天下祭りの一つとして、豪華を極めました。『江戸名所図会』の本文にも「江戸第一の大社」である、と書かれています。
目黒区の北部、現在の駒場周辺の絵図で、代々木野から続く広い原でした。ヒバリ、ウズラ、キジ、ウサギの類も多く、享保(1716~1736)以後は15万坪の幕府の御鷹場となっており、薬園も設けられていました。
新宿区西新宿二丁目にある十二所権現社は、応永年間(1394-1428)に、紀州熊野から、落ちぶれてこの地に流れ着いた鈴木九郎某によって建立されたのが始まりと伝えられています。熊野三山の12所の権現をすべて祀っていました。江戸時代、付近には茶店や料亭が建ち並び、江戸近郊の景勝地となりました。
井の頭池は、江戸時代に敷設された最初の水道である神田上水の水源です。弁財天は、天慶年間(938-946)に、源経基(?-961)が伝教大師作の弁財天女像をこの地に安置したのが始まりとされています。江戸時代には江戸っ子の信仰を集め、また、池周辺には水源涵養のため、多くの樹木が植えられていました。
現在の新宿区高田馬場3丁目から下落合のあたりの風景です。江戸時代には、螢の名所として有名で、当時盛んに出版された名所案内記にも掲載されています。夏は夕涼みに訪れる人が多くありました。
現在の、千代田区外神田二丁目にある神田神社です。明治維新後、「神田明神」から「神田神社」へと名称が変わりました。江戸の総鎮守として祀られ、祭礼は山王神社(権現)と並び、天下祭りの一つとして豪華に繰り広げられました。もとは神田橋近くにあったものが、江戸城の拡張に伴って駿河台に移され、さらに湯島に移されて現在に至っています。
上野池之端仲町で、万病に効くといわれた「錦袋円」を売る、勧学屋の店先が描かれています。延宝3年(1675)に、僧侶の勧学坊了翁(1630-1707)が開き、売上金は、一切経の購入、文庫経営にあてられました。「錦袋円」は毒消しと気付けの薬として評判がよく、江戸土産としても人気がありました。
王子稲荷神社は、関東にある稲荷の総社です。この稲荷のそばに衣裳榎(または装束榎とも)といわれる大きな榎があり、毎年12月晦日の夜は、関八州の狐が官位を決めるため、ここにあつまって、衣装を改めてから稲荷社に参詣した、といわれています。その行列の時に燃える狐火により、人々は翌年の吉凶を占ったといわれています。現在の北区岸町1丁目にあります。
浅草寺の境内には、楊枝を売る店が多くありました。『江戸名所図会』の本文によると、本店は「柳屋」でしたが、次第に「柳屋」を名乗る店が多くなり、この地の名産となった、と書かれています。絵の上部に楊枝の5つの効能を載せています。
台東区浅草にある金竜山浅草寺は、浅草観音として親しまれている聖観世音菩薩を本尊として祀っています。推古36年(628)3月18日の朝、宮戸川(隅田川の別名)に漁に出た3人の漁師が降ろした網に観世音菩薩がかかり、それを祀ったのが起源とされています。御堂はその後、久しく壊れたままでしたが、大化元年(645)、勝海上人が再営しました。その際、お告げによって秘仏とされ、人々は拝むことが出来なくなった、ということです。