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9月15日は、江戸の町で行われる大きな祭りの最後を飾る「神田祭」が開催される日です。この絵は、神田祭の象徴ともいえる山車を番付形式で描いたものです。
10月20日に江戸の商家が、得意先や親戚を招いて商売繁盛を祈るために催すえびす講の食卓をコマ絵(枠内の絵)に入れ、破れた手紙の前でお酒を飲む女性の姿を描いた作品です。
品川鮫洲(さめず)の曹洞宗の寺院・補陀落山(ふだらくさん)海晏寺は紅葉の名所として、晩秋の頃になると遊客が訪れて賑わいました。境内の紅葉を楽しむ母子づれの姿が描かれています。
男女3歳での髪置(かみおき)、男子5歳での袴着(はかまぎ)、女子7歳での帯解(おびとき)といった子供の年祝いは、古くは中世の公家日記などにも見えますが、江戸時代になると庶民の間でも行われ、「七五三」と称されるようになりました。
毎年恒例の11月の顔見世興行の際は番付が刷られますが、これはその番付を真似て制作されたものです。江戸三座(中村座・市村座・守田座(もりたざ))に出演している当時の人気役者たちの名前を見ることができます。
11月の酉の日に行なわれる祭礼「酉の市」(とりのいち)を描いたものです。男性は右手に福をかき込むためのおかめの熊手、左手には人の上に立つための芋頭(いもがしら)を縁起物として持っています。
屋内の大掃除をして神棚をはらい清める年末恒例の行事、煤払い(すすはらい)の様子を描いた錦絵です。江戸時代、煤払いは12月13日に行うことが定められていたため「十三日節供(せっく)」などとも呼ばれる一種の神事でもありました。
今なお続く浅草の歳の市を描いた錦絵です。12月になると江戸のあちらこちらに、正月を迎えるための注連飾り(しめかざり)や神棚、羽子板、さらには食材まで、ありとあらゆる正月用品を売る市が開かれていました。
名所絵で有名な初代広重が描いた影絵で、おもちゃ絵の一種です。宴会などの席で人間が手や足、または小道具を使って雁や猫の格好をし、障子に映る影法師を楽しみました。
『千羽鶴折形』は寛政9年(1797)に京都で発行されたもので、1枚の紙で2羽~100羽の鶴をつなげて作る連鶴(れんづる)の作り方、49種を描いたものです。作り方といっても具体的な折り方の説明はなく、開いた紙にどのように切込みをいれるか、ということのみが示されています。それぞれの連鶴に、蓬莱(ほうらい)、稲妻、妹背山(いもせやま)、百鶴などという名前がつけられています。