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巣鴨庚申塚は、中山道と王子道の交わるところにあり、旅人や行楽客の休憩所として賑わった場所です。
入谷の鬼子母神とともに多くの参詣客を集めていたのが雑司ヶ谷の鬼子母神堂です。永禄4年(1561)に山村丹右衛門が現在の目白台のあたりで鬼子母神像を井戸から掘り出し、東陽坊(のち法名寺に合併)というお寺に祀ったのがはじまりとされています。
鬼子母神には多くの参詣客が訪れ、門前には茶屋や料亭、土産物屋が建ち並んでいました。そのなかで土産物として有名だったのが、風車や麦藁細工の獅子、ススキの穂を束ねて作ったみみずくの人形などです。
多宝山成願寺は、中野区本町にある曹洞宗の寺院で、中野長者と呼ばれた鈴木九郎の寺として知られています。開基である九郎は紀州出身の成功した商人で、その邸宅を寺院にしたのがはじまりといわれています。
中野の塔は寛永年間(1624~1643)に飯塚惣兵衛が寄進した三重の塔で、上野の寛永寺にあった五重の塔と並び称される江戸名所の一つでした。
宝仙寺は平安時代(寛治年間1087~1094)、源義家によって阿佐ヶ谷の地に創建されたと伝えられています。
現在の中野区中野あたりに、八代将軍・吉宗の命によって桃の木を植樹した桃園と呼ばれた庭園がありました。もとは五代将軍・綱吉が「生類憐れみの令」を発した際に、犬のお救い小屋を建てた場所でした。
三宝寺は応永元年(1394)に鎌倉にある大徳寺の幸尊法印によって開かれた真言宗の寺院です。
練馬区石神井町にある石神井神社のご神体は石剣(石神)です。村人が井戸を掘った際、石剣の形をした霊石が出土したため、石神として祀ったことで地名となったそうです。
長命寺は真言宗の寺院として慶長18年(1613)、増島重明(慶算)が創建したと言われています。境内に設けられた霊場は和歌山県にある高野山を模して作られてもので、そのため東高野山とも新高野とも呼ばれています。