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隅田川添いの堤防は桜の名所として有名ですが、ここに桜が植樹されたのには意味があります。花見客が堤防を歩くことで、堤防が踏み固められて丈夫になるという護岸整備の目的もあったのです。隅田川だけでなく玉川上水沿いに桜が植えられたのも同様の理由からといわれています。
「玉屋」「鍵屋」という花火見物の際の掛け声がありますが、これはともに花火師の名前です。鍵屋の六代目弥兵衛が両国の川開き花火を担当したことで、有名になりました。
「六十余州名所図会」は日本全国の名所を描いた広重晩年の連作です。絵の右下にあるのは待乳山(まつちやま)聖天で、このあたりは隅田川を一望できる景勝地でした。
貞元(970年代)のころ、京都から人買いに連れてこられ、隅田川のほとりで亡くなった梅若丸の伝説で有名です。境内には幕府の御前栽畑(ごせんざいばた)があり、野菜が栽培されていました。
回向院は明暦の大火(1657)の焼死者の供養を目的として建立された無宗派の寺院です。相撲興行のほか、本尊や秘仏を寺から持ち出して一定期間公開する「出開帳」の場としても有名でした。
大川橋は隅田川の5つの橋のうち、最後に架けられた橋で、安永3年(1774)に完成しました。
浄真寺は世田谷区奥沢にある浄土宗の寺で、山号を九品山と言いました。九品仏(くほんぶつ)とは、浄真寺に安置されている9体の阿弥陀如来像のことですが、同寺の通称にもなっています。
北沢淡島明神社は、徳川家康の次男・結城秀康の位牌所として慶長13年(1608)に建立された浄土宗・森巌寺の境内にあります。
豪徳寺が創建されたのは文明12年(1480)のことです。寛永10年(1633)に近江彦根藩主・井伊直孝が井伊家の菩提寺とし、大伽藍を備えた寺となりました。
世田谷八幡宮は、源義家が奥州征伐の戦勝御礼に、豊前国(福岡県)宇佐八幡宮より勧請したのがはじまりといわれています。徳川家康入府後には幕府から朱印状を拝領し、世田谷村の鎮守となりました。