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北沢淡島明神社は、徳川家康の次男・結城秀康の位牌所として慶長13年(1608)に建立された浄土宗・森巌寺の境内にあります。
豪徳寺が創建されたのは文明12年(1480)のことです。寛永10年(1633)に近江彦根藩主・井伊直孝が井伊家の菩提寺とし、大伽藍を備えた寺となりました。
世田谷八幡宮は、源義家が奥州征伐の戦勝御礼に、豊前国(福岡県)宇佐八幡宮より勧請したのがはじまりといわれています。徳川家康入府後には幕府から朱印状を拝領し、世田谷村の鎮守となりました。
世田谷区上馬にあったとされる「常盤塚」ですが、江戸時代でも塚が2つあったようで、どちらが本当かわからなかったようです。この地が名所とされたのは世田谷城主であった吉良頼康とその側室・常盤の伝説によるもので、常盤塚のすぐ近くに常盤橋があったようです。
上野東叡山は江戸城の鬼門の位置にあります。天海僧正の進言により、京都の町の鬼門にあたる比叡山に延暦寺が建てられているのにならい、上野忍が岡の大地を東の比叡山という意味で東叡山と号し、延暦寺に対して寛永2年(1625)に寛永寺を建立しました。
不忍池は蓮の名所で、島の茶屋では蓮飯を食べることができました。天海僧正が寛永寺を創建した時に、不忍池を琵琶湖に見立てて中島を築き、のちに弁天祠が移されました。当初は文字どおり船でしか渡れない島でしたが、寛文12年(1672)に石橋が架けられ、徒歩でも渡れるようになりました。
両国の花火を描いた有名な作品です。今でも隅田川の花火大会は多くの人に楽しまれていますが、江戸の人々も夜空に浮かび上がる光の芸術を心待ちにしていました。絵には「ポカ物」と呼ばれる花火の大輪が描かれていますが、江戸時代は花火の技術が発展した時代でもあり、江戸だけでなく、現在の長野県や愛知県などでも花火が作られ、打ち上げられていました。
雷門(風雷神門)は浅草寺の境内の入口にあります。もとは天慶5年(942)に創建され、駒形(台東区)あたりにあったそうです。鎌倉時代以降に現在の地に移築された際、風神・雷神が初めて安置されたと言われています。
上野の寛永寺境内にある不忍池は江戸第一の蓮池でもあったそうです。干ばつの際にも枯れることなく、蓮の見頃となる夏の時期には紅白の花が咲き乱れ、訪れる人々の目を楽しませました。
「年の市」では正月用の注連飾(しめかざり)や若水桶(わかみずおけ)、縁起物などが売られていました。江戸では深川八幡、神田明神などが有名でしたが、なかでも賑わったのが12月18日に行われていた浅草寺の年の市です。