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江戸の正月の風物詩の一つに諸侯登城、つまり将軍への新年の挨拶に出かける大名行列がありました。大名たちは卯半刻(午前7時頃)にそれぞれの江戸屋敷から登城します。
豊島区の巣鴨から駒込あたりにあった染井村は、植木屋が多く住んでいた土地です。「染井吉野」という桜は染井村で生まれたことから名前がつけられたといわれています。
菊の栽培は江戸時代前期から盛んになり、中期になると「菊合わせ」と呼ばれる新種の品評会が行われるほど人気が高まりました。また、19世紀には菊を使って人物や鳥獣の形を作ることが流行しました。
法明寺は弘仁元年(810)真言宗の寺院として創建されました。正和元年(1312)に日蓮宗に改宗、江戸時代には三代将軍・家光より御朱印を受けて、真乗院、蓮光院、玄静院、観静院など14ヶ寺を擁する大寺院でした。
巣鴨庚申塚は、中山道と王子道の交わるところにあり、旅人や行楽客の休憩所として賑わった場所です。
入谷の鬼子母神とともに多くの参詣客を集めていたのが雑司ヶ谷の鬼子母神堂です。永禄4年(1561)に山村丹右衛門が現在の目白台のあたりで鬼子母神像を井戸から掘り出し、東陽坊(のち法名寺に合併)というお寺に祀ったのがはじまりとされています。
鬼子母神には多くの参詣客が訪れ、門前には茶屋や料亭、土産物屋が建ち並んでいました。そのなかで土産物として有名だったのが、風車や麦藁細工の獅子、ススキの穂を束ねて作ったみみずくの人形などです。
多宝山成願寺は、中野区本町にある曹洞宗の寺院で、中野長者と呼ばれた鈴木九郎の寺として知られています。開基である九郎は紀州出身の成功した商人で、その邸宅を寺院にしたのがはじまりといわれています。
中野の塔は寛永年間(1624~1643)に飯塚惣兵衛が寄進した三重の塔で、上野の寛永寺にあった五重の塔と並び称される江戸名所の一つでした。
宝仙寺は平安時代(寛治年間1087~1094)、源義家によって阿佐ヶ谷の地に創建されたと伝えられています。