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馬喰町(ばくろちょう)の名前は、徳川家康が関ヶ原出陣に必要な数百頭の軍馬を管理するために、「馬喰」(ばくろう)と呼ばれる馬方を住まわせたことに由来します。その後も隣町の大伝馬町・小伝馬町に幕府の伝馬役を勤めた大勢の馬喰が住んでいました。
6月15日に行われていた日吉山王大権現社(現・日枝神社)の例大祭が山王祭です。祭の行列は城内で将軍の上覧に預かりました。
家康が江戸入府の間もない時期に、このあたりを案内したのが飯田喜兵衛という農民です。この功績から喜兵衛は名主を命じられ、町名も飯田町となったと言われています。
江戸の正月の風物詩の一つに諸侯登城、つまり将軍への新年の挨拶に出かける大名行列がありました。大名たちは卯半刻(午前7時頃)にそれぞれの江戸屋敷から登城します。
豊島区の巣鴨から駒込あたりにあった染井村は、植木屋が多く住んでいた土地です。「染井吉野」という桜は染井村で生まれたことから名前がつけられたといわれています。
菊の栽培は江戸時代前期から盛んになり、中期になると「菊合わせ」と呼ばれる新種の品評会が行われるほど人気が高まりました。また、19世紀には菊を使って人物や鳥獣の形を作ることが流行しました。
法明寺は弘仁元年(810)真言宗の寺院として創建されました。正和元年(1312)に日蓮宗に改宗、江戸時代には三代将軍・家光より御朱印を受けて、真乗院、蓮光院、玄静院、観静院など14ヶ寺を擁する大寺院でした。
巣鴨庚申塚は、中山道と王子道の交わるところにあり、旅人や行楽客の休憩所として賑わった場所です。
入谷の鬼子母神とともに多くの参詣客を集めていたのが雑司ヶ谷の鬼子母神堂です。永禄4年(1561)に山村丹右衛門が現在の目白台のあたりで鬼子母神像を井戸から掘り出し、東陽坊(のち法名寺に合併)というお寺に祀ったのがはじまりとされています。
鬼子母神には多くの参詣客が訪れ、門前には茶屋や料亭、土産物屋が建ち並んでいました。そのなかで土産物として有名だったのが、風車や麦藁細工の獅子、ススキの穂を束ねて作ったみみずくの人形などです。