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霞が関は古来より歌枕の地として多くの和歌に詠まれてきました。奥州街道の関所があったことからこの名前がつけられたといわれています。江戸時代は大名屋敷が立ち並ぶ場所で、坂の上からは江戸湾が一望できました。
筋違(すじかい)という名前は、江戸城から上野の寛永寺に続く御成道と、日本橋を起点として本郷方面へと続く中山道が交差する場所であったことに由来しているそうです。この2つの筋を含む計8つの道が変則的に交差することから、八ッ小路(八辻ヶ原とも)ともいわれていますが、実際には10以上の道が交差していました。 このあたりは武家地と町人地の境界でもあるため、火事の際に延焼を防ぐ火除地(ひよけち)としての広場がありました。
神田明神は天平2年(730)、現在の千代田区大手町付近に創建されました。
馬喰町(ばくろちょう)の名前は、徳川家康が関ヶ原出陣に必要な数百頭の軍馬を管理するために、「馬喰」(ばくろう)と呼ばれる馬方を住まわせたことに由来します。その後も隣町の大伝馬町・小伝馬町に幕府の伝馬役を勤めた大勢の馬喰が住んでいました。
6月15日に行われていた日吉山王大権現社(現・日枝神社)の例大祭が山王祭です。祭の行列は城内で将軍の上覧に預かりました。
家康が江戸入府の間もない時期に、このあたりを案内したのが飯田喜兵衛という農民です。この功績から喜兵衛は名主を命じられ、町名も飯田町となったと言われています。
江戸の正月の風物詩の一つに諸侯登城、つまり将軍への新年の挨拶に出かける大名行列がありました。大名たちは卯半刻(午前7時頃)にそれぞれの江戸屋敷から登城します。
豊島区の巣鴨から駒込あたりにあった染井村は、植木屋が多く住んでいた土地です。「染井吉野」という桜は染井村で生まれたことから名前がつけられたといわれています。
菊の栽培は江戸時代前期から盛んになり、中期になると「菊合わせ」と呼ばれる新種の品評会が行われるほど人気が高まりました。また、19世紀には菊を使って人物や鳥獣の形を作ることが流行しました。
法明寺は弘仁元年(810)真言宗の寺院として創建されました。正和元年(1312)に日蓮宗に改宗、江戸時代には三代将軍・家光より御朱印を受けて、真乗院、蓮光院、玄静院、観静院など14ヶ寺を擁する大寺院でした。