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宝永2年(1705)、五代将軍・綱吉は兄・綱重の子ども・綱豊(後の六代将軍・家宣)を養子にした際、千駄木にあった根津神社を綱重の江戸根津屋敷跡に献納し大造営を行いました。これが現在の根津権現です。
井の頭池を水源とした神田上水の水を江戸の町に行き渡らせるための重要な設備が、この大洗堰です。井の頭池や善福寺池などから引かれた水が、この堰で2つに分かれます。上水として必要な分は水戸徳川家の御屋敷に送り、その後地下を通って江戸中に配水され、余った水はここで江戸川に落とされたのです。この設備が設けられたのは三代将軍・家光の時代でした。
現在、豊島区高田にある目白不動堂は、もとは関口駒井町(現・文京区関口)にありました。境内の眺望、とくに雪景色が見事であったことで江戸名所となりました。
古川は上流では渋谷川、下流では赤羽川、新堀川、金杉川と名前を変え江戸湾に注ぐ川です。古川には麻布十番の船着き場より、順に一之橋から四之橋という橋が架けられました。
高輪は江戸湾を一望できる名所として、とくに「二十六夜待」の月見の名所として有名な場所でした。「二十六夜待」とは、陰暦の1月と7月の26日に、遅い月の出を待って拝む慣わしで、海岸や高台に人々が集まりました。
徳川将軍家の菩提寺として有名な増上寺の大梵鐘は、延宝元年(1673)、品川の御殿山で椎名伊予守によって鋳造されました。高さは約3m、重さは約15tという巨大な梵鐘は、四代将軍・家綱の命により作られた、江戸で初めての梵鐘といわれています。
紀の国坂は徳川御三家の一つ紀州家の中屋敷があったことからその名がつけられました。また、赤坂の由来は、染料に使われる茜草が茂る赤根山の坂であったためとも、赤土が多かったためともいわれています。
港区芝大門にある芝大神宮は、「芝神明」という呼び名で古くから親しまれている神社です。9月に開催される祭礼は、開催期間が11日もあり、「だらだら祭り」と揶揄されるほどでした。祭礼中は境内のいたるところで名物の谷中生姜が売られたので、別名「生姜市」とも呼ばれました。
関東における浄土宗の総本山として、また徳川将軍家菩提寺として江戸時代に隆盛を誇ったのが増上寺です。二代秀忠、六代家宣、七代家継、九代家重、十二代家慶、十四代家茂の6人の将軍が埋葬されています。
泉岳寺は徳川家康によって創建されました。寛永18年(1641)の大火によって焼失し、高輪の地に移ってきましたが、この移転に尽力したのが毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の5大名です。