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東海道の起点である日本橋の上から下流に架けられた江戸橋を望んだ風景です。江戸橋に向こうには、『鎧の渡し小網町』で描かれている小網町の蔵も見え、画面手前に見えるのが初鰹であることから、日本橋の夏の風景を描いた作品ということがわかります。
小網町と霊岸島を流れる十間堀(とうかんぼり)には橋がなく、鎧の渡しで結んでいました。
日本橋界隈の河岸は江戸の物流の拠点として、場所によって荷揚げされる商品が決められており、魚河岸のほか、塩河岸、米河岸もありました。
現在の日本橋室町や本町あたりに魚河岸がありました。江戸湾など近海で獲られた鮮魚がここに集まり、棒手振(ぼてふり)などを通して江戸の人々に食されたのです。
霞が関は古来より歌枕の地として多くの和歌に詠まれてきました。奥州街道の関所があったことからこの名前がつけられたといわれています。江戸時代は大名屋敷が立ち並ぶ場所で、坂の上からは江戸湾が一望できました。
筋違(すじかい)という名前は、江戸城から上野の寛永寺に続く御成道と、日本橋を起点として本郷方面へと続く中山道が交差する場所であったことに由来しているそうです。この2つの筋を含む計8つの道が変則的に交差することから、八ッ小路(八辻ヶ原とも)ともいわれていますが、実際には10以上の道が交差していました。 このあたりは武家地と町人地の境界でもあるため、火事の際に延焼を防ぐ火除地(ひよけち)としての広場がありました。
神田明神は天平2年(730)、現在の千代田区大手町付近に創建されました。
馬喰町(ばくろちょう)の名前は、徳川家康が関ヶ原出陣に必要な数百頭の軍馬を管理するために、「馬喰」(ばくろう)と呼ばれる馬方を住まわせたことに由来します。その後も隣町の大伝馬町・小伝馬町に幕府の伝馬役を勤めた大勢の馬喰が住んでいました。
6月15日に行われていた日吉山王大権現社(現・日枝神社)の例大祭が山王祭です。祭の行列は城内で将軍の上覧に預かりました。
家康が江戸入府の間もない時期に、このあたりを案内したのが飯田喜兵衛という農民です。この功績から喜兵衛は名主を命じられ、町名も飯田町となったと言われています。