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江戸から京都へ向かう東海道の起点・日本橋を描いた有名な作品です。参勤交代の大名行列が朝早く江戸を出発する様子のほか、天秤棒を担いだ一団が、向こう岸にあった魚河岸から仕入れを終え、行商に出かける様子も描かれており、江戸で一番賑わっている早朝の日本橋の活気が伝わってきます。
大伝馬町には「大伝馬町木綿問屋仲間」と呼ばれる、木綿販売の独占権を持った組合がありました。そのため、越後屋、白木屋、松坂屋といった有名呉服店のほとんどがこの周辺に店を構えていました。
鉄砲洲は中央区湊あたりの旧称で、江戸幕府の鉄砲の試射地であったことがその名前の由来といわれています。湊稲荷は江戸の入口を守る神社として人々の信仰を集めました。
東海道の起点である日本橋の上から下流に架けられた江戸橋を望んだ風景です。江戸橋に向こうには、『鎧の渡し小網町』で描かれている小網町の蔵も見え、画面手前に見えるのが初鰹であることから、日本橋の夏の風景を描いた作品ということがわかります。
小網町と霊岸島を流れる十間堀(とうかんぼり)には橋がなく、鎧の渡しで結んでいました。
日本橋界隈の河岸は江戸の物流の拠点として、場所によって荷揚げされる商品が決められており、魚河岸のほか、塩河岸、米河岸もありました。
現在の日本橋室町や本町あたりに魚河岸がありました。江戸湾など近海で獲られた鮮魚がここに集まり、棒手振(ぼてふり)などを通して江戸の人々に食されたのです。
霞が関は古来より歌枕の地として多くの和歌に詠まれてきました。奥州街道の関所があったことからこの名前がつけられたといわれています。江戸時代は大名屋敷が立ち並ぶ場所で、坂の上からは江戸湾が一望できました。
筋違(すじかい)という名前は、江戸城から上野の寛永寺に続く御成道と、日本橋を起点として本郷方面へと続く中山道が交差する場所であったことに由来しているそうです。この2つの筋を含む計8つの道が変則的に交差することから、八ッ小路(八辻ヶ原とも)ともいわれていますが、実際には10以上の道が交差していました。 このあたりは武家地と町人地の境界でもあるため、火事の際に延焼を防ぐ火除地(ひよけち)としての広場がありました。
神田明神は天平2年(730)、現在の千代田区大手町付近に創建されました。