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飛鳥山が桜の名所となったのは八代将軍・吉宗の時代で、「享保の改革」の一環として江戸の人々の行楽地とするため、飛鳥山に桜を植樹したことから始まります。
王子稲荷には、稲荷の使いである狐が大晦日に関東中から集まり、近くの榎の下で身なりを整え、初詣をするという言い伝えが残っています。これが「衣装榎木」の由来です。この時、狐たちが灯す狐火によって、地元の人々は翌年の作物の実り具合を占ったそうです。
江戸庶民の磯遊びの一つである潮干狩りは3月の年中行事として、品川や芝浦、深川洲崎などで見ることができました。なかでも洲崎は潮干狩りの名所として、多くの人々で賑わっていました。
富岡八幡宮(とみがおかはちまんぐう)が、永代島(現・江東区佐賀町)に創建されたのは寛永4年(1627)のことです。深川八幡宮とも呼ばれ、源氏の氏神でもあることから源氏の末裔である徳川家の保護を受け、江戸最大の八幡宮として繁栄しました。祭礼は、赤坂の日枝神社の山王祭、神田明神の神田祭と並ぶ「江戸三大祭」の一つに数えられています。
寛永年間(1624~1643)に京都の三十三間堂を模して浅草に建てられたのが三十三間堂のはじまりです。深川に移されたのは元禄14年(1701)のことであり、本尊は千手観音であったといわれています。この地においても、弓術稽古のために通し矢が行われていました。
江戸近郊の梅の名所として最も有名だったのが亀戸にあった梅屋敷です。竜がとぐろを巻いて臥すかのような形の「臥竜梅(がりゅうばい)」で有名でした。園内では臥竜梅の梅干を販売していたそうです。
洲崎は古くは「深川洲崎十万坪」と呼ばれるほど広大な敷地を持ち、海を望むことのできる景勝地でした。初日の出、月見、潮干狩り、船遊びなど行楽の地として人気を集めましたが、寛政3年(1791)に起きた大津波によって甚大な被害を蒙り、幕府はこの地を居住禁止区域としました。
天恩山五百羅漢寺は本所五ツ目(現・江東区大島)にあり、境内六千坪を有する大寺院でした。江戸末期、暴風雨や地震により荒廃し、現在は小さなお堂を残すのみです。
木場とは材木置場(貯木場)のことです。江戸では徳川家康の入府以来、江戸城や大名屋敷、寺社仏閣や町家の造営のため材木の需要が高く、幕府は寛永18年(1641)に材木置場を永代島に集めました。ここが木場(後に元木場)と称され、地名の由来となっています。元禄14年(1701)、市街地の拡大と材木需要のさらなる増加に伴い、木場は少し東よりの深川に移転し、9万坪もの深川木場が誕生しました。
江戸の名産品として有名な浅草海苔の生産は18世紀に入ると品川や大森に移り、品川海苔の名前が生まれました。