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江戸庶民の磯遊びの一つである潮干狩りは3月の年中行事として、品川や芝浦、深川洲崎などで見ることができました。なかでも洲崎は潮干狩りの名所として、多くの人々で賑わっていました。
富岡八幡宮(とみがおかはちまんぐう)が、永代島(現・江東区佐賀町)に創建されたのは寛永4年(1627)のことです。深川八幡宮とも呼ばれ、源氏の氏神でもあることから源氏の末裔である徳川家の保護を受け、江戸最大の八幡宮として繁栄しました。祭礼は、赤坂の日枝神社の山王祭、神田明神の神田祭と並ぶ「江戸三大祭」の一つに数えられています。
寛永年間(1624~1643)に京都の三十三間堂を模して浅草に建てられたのが三十三間堂のはじまりです。深川に移されたのは元禄14年(1701)のことであり、本尊は千手観音であったといわれています。この地においても、弓術稽古のために通し矢が行われていました。
洲崎は古くは「深川洲崎十万坪」と呼ばれるほど広大な敷地を持ち、海を望むことのできる景勝地でした。初日の出、月見、潮干狩り、船遊びなど行楽の地として人気を集めましたが、寛政3年(1791)に起きた大津波によって甚大な被害を蒙り、幕府はこの地を居住禁止区域としました。
天恩山五百羅漢寺は本所五ツ目(現・江東区大島)にあり、境内六千坪を有する大寺院でした。江戸末期、暴風雨や地震により荒廃し、現在は小さなお堂を残すのみです。
木場とは材木置場(貯木場)のことです。江戸では徳川家康の入府以来、江戸城や大名屋敷、寺社仏閣や町家の造営のため材木の需要が高く、幕府は寛永18年(1641)に材木置場を永代島に集めました。ここが木場(後に元木場)と称され、地名の由来となっています。元禄14年(1701)、市街地の拡大と材木需要のさらなる増加に伴い、木場は少し東よりの深川に移転し、9万坪もの深川木場が誕生しました。
江戸の名産品として有名な浅草海苔の生産は18世紀に入ると品川や大森に移り、品川海苔の名前が生まれました。
海晏寺は江戸随一の紅葉の名所といわれています。境内には紅葉茶屋が設けられ、広大な庭を散策する人々で賑わいました。
御殿山は桜の名所として有名でした。しかし幕末のペリー来航によって、幕府は御殿山から八ッ山にかけての一帯を削り取り、お台場を建設したため、あたりの景観は大きく変わりました。
南品川の洲崎は目黒川河口の砂洲にできた町です。幕府に魚介類を納める「御菜肴八ヶ浦(おさいさかなはちかうら)」のひとつでした。