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石神井川は、王子稲荷のあたりでは音無川と呼ばれています。王子稲荷が紀州(和歌山県)の熊野権現を勧請し、地勢も熊野山を模したことに由来するためで、川の名前も紀州音無川に倣った(ならった)のです。
飛鳥山が桜の名所となったのは八代将軍・吉宗の時代で、「享保の改革」の一環として江戸の人々の行楽地とするため、飛鳥山に桜を植樹したことから始まります。
富岡八幡宮(とみがおかはちまんぐう)が、永代島(現・江東区佐賀町)に創建されたのは寛永4年(1627)のことです。深川八幡宮とも呼ばれ、源氏の氏神でもあることから源氏の末裔である徳川家の保護を受け、江戸最大の八幡宮として繁栄しました。祭礼は、赤坂の日枝神社の山王祭、神田明神の神田祭と並ぶ「江戸三大祭」の一つに数えられています。
天恩山五百羅漢寺は本所五ツ目(現・江東区大島)にあり、境内六千坪を有する大寺院でした。江戸末期、暴風雨や地震により荒廃し、現在は小さなお堂を残すのみです。
木場とは材木置場(貯木場)のことです。江戸では徳川家康の入府以来、江戸城や大名屋敷、寺社仏閣や町家の造営のため材木の需要が高く、幕府は寛永18年(1641)に材木置場を永代島に集めました。ここが木場(後に元木場)と称され、地名の由来となっています。元禄14年(1701)、市街地の拡大と材木需要のさらなる増加に伴い、木場は少し東よりの深川に移転し、9万坪もの深川木場が誕生しました。
御殿山は桜の名所として有名でした。しかし幕末のペリー来航によって、幕府は御殿山から八ッ山にかけての一帯を削り取り、お台場を建設したため、あたりの景観は大きく変わりました。
南品川の洲崎は目黒川河口の砂洲にできた町です。幕府に魚介類を納める「御菜肴八ヶ浦(おさいさかなはちかうら)」のひとつでした。
月の岬の場所については諸説ありますが、この絵は品川宿の有名な妓楼の二階から品川の海を描いた景色といわれています。
深川の洲崎と並び潮干狩りの名所として有名なのが品川です。海辺の宿場町として繁栄した品川は、春は桜見物や潮干狩り、秋は紅葉などが一年をとおして楽しめる行楽地でもありました。
東海道品川宿は、中山道板橋宿、甲州街道内藤新宿、日光・奥州街道千住宿と並ぶ江戸四宿のひとつで、唯一海に面した宿場です。名所や魚介類の名物が多く、風光明媚な地として、四季折々に江戸市中から多くの人々が訪れていました。