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板橋宿は上宿、仲宿、平尾宿という3つの宿場の総称であり、上宿と仲宿の境目は「板橋」が架かる石神井川、仲宿と平尾宿の境目は観明寺付近にありました。
清水坂は中山道最初の難所ですが、街道筋では唯一富士山を一望できる名所でもありました。坂の下には板橋と蕨の両宿をつなぐ合の宿があり、休憩や戸田の渡しが増水で利用できない時に備えの場所として利用されていました。
江戸時代には形ばかりの草堂となっていましたが、南北朝時代には七堂伽藍を備えた大寺院であったことから、大堂と言われていたそうです。南北朝時代の鋳造とされる梵鐘と、鎌倉時代末期の制作と言われる本尊阿弥陀如来坐像を目当てに、江戸市中からも参詣客が訪れていました。
乗蓮寺は江戸時代には板橋宿の中にあり、孤雲山慶学院乗蓮寺と称していました。境内には「相生杉(あいおいすぎ)」と「女男の松(めおのまつ)」があり、縁結びの寺といわれていました。
大正元年(1912)に今井橋が架けられるまで、江戸川を渡る人々が利用していたのが今井の渡しです。
江戸時代、葛西周辺の人家の庭や田畑の畦道には四季おりおりの草花が植えられていました。この草花は江戸の市で売られたようです。
江戸時代は釣りが、遊びとしての文化を確立した時代であり、なかでも秋のハゼ釣、春秋のキス釣の人気は高く、様々な釣りの案内本や秘伝書が刊行されました。
現在の江東区大島に、中川番所と呼ばれた、江戸に出入りする川船を取り締まるための施設がありました。特に積荷の通行には厳格で、江戸の河川流通の関所として重要な役割を果たしていました。
二之江から今井、船堀、桑川といった江戸川の村々で作られた海苔は「葛西海苔」と称され、「浅草海苔」と異なった紫菜であったそうです。
平井聖天宮の正式名は燈明寺と言い、縁結び・厄除け開運の仏として古くから信仰を集めてきました。現代でも浅草の待乳山聖天(まつちやましょうてん)、熊谷の妻沼聖天(めぬましょうてん)とともに、「関東三聖天」のひとつといわれています。