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江戸時代後期、多摩川の河口には広大な洲が形成されていました。 この洲の南の先端に羽田弁天(玉川弁才天)と呼ばれる古い弁天堂がありました。
江戸の土産物として人気が高かったのが浅草海苔です。江戸時代中期以降になると、その製造は主に大森や品川で行われていました。古くは浅草で製造されていたため浅草海苔と呼んでいたようです。
大森の名産品である麦わら細工が作られるようになったのは江戸時代中期のことです。東海道筋の土産物として旅人に人気がありました。
堀切の花菖蒲は、江戸名所の一つとして、江戸時代のみならず明治・大正期まで多くの人々がこの場所に訪れたほどです。
引舟(曳舟)とは船頭が櫓や竿で船を動かすのではなく、岸から綱で引っ張って客を運ぶ運搬法です。描かれているのは本所用水ですが、水路の幅が狭く水深が浅いことから、舟運は曳舟しかなかったようです。
葛飾区立石にある真言宗豊山派の南蔵院は五方山立石寺と号し、熊野神社の別当寺として長保年間(999~1004)に創建されたと伝えられています。江戸時代は将軍鷹狩の際の御膳所も勤めていました。
新宿(にいじゅく)は水戸街道の宿場として千住宿と松戸宿の間に置かれていました。しかし参勤交代の大名たちは千住宿や松戸宿に泊まるため、本陣も脇本陣もない、小さな宿場でした。ここには中川を渡るための渡し場がありました。
夕顔観音とは、寛文8年(1668)、飯塚村(現・葛飾区水元飯塚町)の関口治左衞門が夢のお告げにより自宅のそばにあった松の根元から掘り出したという由緒を持つ観音菩薩像のことです。
江戸時代の王子は、王子稲荷参詣や滝浴みなどの観光地として大変賑わっていました。音無川付近には料亭が軒を連ねていたそうです。なかでも評判だったのが「海老屋」と「扇屋」で、江戸時代の料理屋番付などにも登場します。「海老屋」は扇屋の兄弟が出していた店ですが、今では扇屋だけが残っています。